「言と命と光」-12月20日説教

ヨハネによる福音書 1章1~14節
 マタイの福音書は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と始まっています。マタイの福音書はアブラハムに始まり、イエス様の父となるヨセフに至る系図を記し、ヨセフの妻となるマリアからイエス様がお生まれになったことを記しています。マタイの福音書で天使が救い主の誕生を告げたのは、マリアではなくヨセフです。マタイの福音書は、ヨセフに焦点を当てながらクリスマスの出来事を記していると言えます。マルコの福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始まり、洗礼者ヨハネが民に救い主を迎える備えをさせたことを記し、その後に成人されたイエス様が登場されます。つまりマルコの福音書は、イエス様の誕生に関することを記していません。ルカの福音書は、マリアに焦点を当てながらクリスマスの出来事を記しています。マリアに天使が現れて、あなたは身ごもって男の子を産むと告げられます。またその時、親類のエリサベトも身ごもっていることを聞き、エリザベトを訪ね、そこでマリアは神を賛美します。この賛美はマリアの賛歌(マグニフィカート)と呼ばれています。そして、ヨセフと共に住民登録のためのベツレヘムへの旅の途中でイエス様がお生まれになったことを記しているの
 それでは「初めに言があった」と始めるヨハネの福音書では、クリスマスの出来事はどのように記されているのでしょう。「初めに言があった」とありますように、ヨハネの福音書は神の御子であるイエス様のことを「言(ことば)」と呼び、すべての始まりは言からであったと福音書を記し始めています。初めにというのは、この世界が創造される前の初めです。時間的な始まりというよりも、発端とか根源という意味の初めです。すべての初めから言と呼ばれている御子は神であり、神と共におられ、この世界は御子によって創られたと、その初めのことを記しているのです。そして、今日の日課の終わりに「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。これがヨハネの福音書が記すクリスマスです。言である御子が、この世界が創られる初めから神であり、神と共におられた御子が、肉となって私たちの間に宿られた、肉体をとり、人となられて私たちの所に来てくださったというのです。ヨハネの福音書は、この世の出来事としてではなく、イエス様の父となるヨセフを通してでも、母となるマリアを通してでもなく、初めからおられた神である方が、人となって私たちの住むこの世界に来てくださったと、クリスマスの出来事を記しているということです。
 それでは、言と呼ばれている方はどのような方でしょうか。この言と訳されているギリシア語は「ロゴス」という言葉です。国語辞典でこのロゴスを引いてみますと「言葉、理性、論理」というような意味が記されています。もう少し詳しい辞典を引いてみますと、もっとさまざまな意味が記されていてまして、哲学で使われる言葉としても説明されています。けれどもそういったことを調べながら、「初めに言があった」というこの箇所について考えても、言とは、ロゴスとは何のことなのか分からなくなる一方ではないかと思います。言から考えるのではなく、イエス様から考えた方がよいかもしれません。私たちはイエス様のことを知っています。本当に正しく理解しているかと言えば、自信がなくなってくるかもしれませんが、それでも私たちそれぞれは、イエスという方を知っていて、共に歩んでくださることを喜んでいるのではないでしょうか。その私たちが知っているイエス様をヨハネの福音書は「言」と呼んだのです。なぜイエス様を言と呼んだかということを考えることが大切です。言葉は、思いを人に伝えるためのものです。思いが形になって言葉となるということです。ヨハネの福音書にはイエス様が「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった」(ヨハネ12.49)と言われたことが記されています。イエス様が語られたことは、父なる神がイエス様に語るように命じられたことだと言われたのです。それはイエス様が語ることと神の御心とは一つだということでもあります。そして神の御心は、イエス様を通して形になり、言葉になり、私たちに与えられたのです。神は言であるイエス様を通して、御心を示してくださったということです。
 今日の箇所には「言の内に命があった」と「命は人間を照らす光であった」とも記されています。それはイエスご自身が言われたことです。ヨハネの福音書は、イエス様が「わたしは命のパンである」(6.48)と言われたこと、「わたしは復活であり、命である」(11.25)と、また「わたしは世の光である」(8.12)と言われたことを記しています。イエス様が命であり、光であることは言葉となって、私たちの所に届きました。その時、その言葉を聞く私たちの在り方も大切になってくるのではないでしょうか。聞いても言葉が右から左に通り過ぎていくことがあります。聞いても、すぐに忘れてしまうこともあります。しかしまた、その言葉を私に向けられた大切な言葉として聞くことができることもあります。これらの言葉は私たち一人一人に向けられた言葉として受け止めることのできる言葉です。ではどうすればイエス様の言葉を「わたしはあなたの命だ」と「わたしはあなたの光だ」という私に向けられた言葉として聞くことができるのでしょうか。ヨハネの福音書は、「暗闇は光を理解しなかった」と記しています。暗闇は人を不安にさせ、恐れを抱かせるものですが、その暗闇の中に光があれば人は安心できると思います。けれどもこの箇所は、暗闇は光を理解せず、受け入れなかったというのです。それは、光によって照らし出されるものが、良いものばかりであるとは限らないからではないでしょうか。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」とあります。その光が、私たちの心の内側まで、心の奥底まで照らし出し、すべてが明るみに出されるとしたらどうでしょう。心の内側に隠している、だれにも見せたくない部分、自分でも見つめたくない部分までもが照らし出されてしまうことになります。その時私たちは、光から離れようとするのだと思います。「暗闇は光を理解しなかった」とはそういうことです。ただ私たちは、イエス様が「わたしは光だ」と言われたのはなぜかということを、もう一度考えたいと思うのです。同じヨハネの福音書(12.47)で、イエス様は「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」と言われています。心の中の自分でも見つめたくないような部分であっても、そこに光が当てられなければ、そこにはいつまでも人に見せたくない部分、自分でも見たくない部分が残り続け、問題は解決されないままになるのではないでしょうか。そこに光が当てられるのは、赦しを与えるためです。見たくないものに蓋をして見なかったことにするのではなく、そのことが明らかにされて赦しが与えられるのです。赦されるということはそういうことです。そしてその時、私たちはイエス様の命を生きる者にされるのです。
 クリスマスの喜びは、悲しみや痛みの近くにあるということを思います。罪が赦されるということを抜きにして、クリスマスの喜びは本当の喜びにはならないからです。イエス様は光として罪のただ中に来てくださいました。その罪を赦し、命を与えるためです。そこにクリスマスの本当の喜びがあります。言であるイエス様を通して、神は私たちに御心を示してくださったのです。初めから神と共に、神としておられた方が人となって、この世界にお生まれになったということを聞くだけでは、私には直接関わりのない遠くの出来事のように感じるかもしれません。しかしヨハネの福音書は、その後に人々と共に生き、人々の悲しみや痛みをご自分の悲しみや痛みとされ、弟子たちを愛し抜かれたイエス様のご生涯を記しているのです。そのイエス様について記す言葉を、私に向けられた言葉として私たちが聞くときに、私たちはイエス様と出会うのです。私たちはイエス様が私の悲しみや痛みをご自分の痛みや悲しみとされ、この私を愛し、私の罪を赦してくださったことを心から喜ぶことができるのです。クリスマスを私の出来事として受け止めたいと思います。そうして、与えられた喜びを出会った人々に伝えていきたいと思のです。(2020年12月20日)