「主イエスを見る」-復活祭説教

ヨハネによる福音書 20章1~18節
 主の復活を共に喜べますことに感謝をしたいと思います。昨年のイースターは、共に集う礼拝を休止している時のことでしたから、この会堂に共に集って、主の復活を喜ぶことができるのは2年ぶりのことになります。
 ただ当然のことですが、昨年教会で共にイースターを喜ぶことができなかったからと言って、イースターの喜びを一年先送りにしたわけではありません。私たちはいつも主の復活の喜びの中にいます。私たちの礼拝は、いつも主の復活を喜んでいると言ってもよいくらいなのです。復活の主が今も生きて働かれることの中に、私たちの喜びがあるからです。その喜びを確かめ、より確かなものとする時が、このイースターです。
 今日の日課は、ヨハネの福音書が伝えるイエス様の復活についての箇所です。十字架に死なれたイエス様が葬られた墓を、最初に訪れたのは婦人たちでした。ヨハネの福音書は、その一人であるマグダラのマリアに焦点を当てています。
 ルカの福音書(8.2)によりますと、このマグダラのマリアは、イエス様に「七つの悪霊を追い出していただいた」女性です。いくつもの苦しみの中に置かれていた彼女は、イエス様と出会い、その苦しみを取り除いていただきました。それでマリアは、十二弟子のようにイエス様と共に旅をしながらイエス様に従う者となったのです。イエス様に従って生きることの中に、生きる意味を見出していたと言ってよいでしょう。
 しかし、そのイエス様が十字架に死なれたのです。深い悲しみの中で墓に向かった彼女は、見出した生きる意味を失ってしまったと感じたに違いありません。それでもせめてイエス様の遺体に近くにいたいと墓に向かったのでしょう。しかし墓の入り口を塞ぐ石が取りのけてあり、墓の中にイエス様の遺体を見つけることができなかったというのです。それでマリアはペトロたちのところに行き、そのことを告ました。
 ペトロともう一人の弟子が、この弟子はヨハネと言われていますが、そのもう一人の弟子が、墓に行ってみますと、やはりイエス様の遺体はありませんでした。イエス様を包んだ亜麻布が置いてあり、離れた所に頭を包んでいた覆いが丸めてあったと墓の中の状況が記されています。
 もう一人の弟子は墓に入り、その状況を「見て、信じた」と聖書は記しています。しかし続けて「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」とも記しています。どういうことでしょうか。「信じなかった。まだ理解していなかったから」というのなら分かりますが、信じたのにまだ理解していなかったというのです。
 これは、もう一人の弟子は、復活を信じる入口に立ったけれども、まだ聖書の言葉を理解していなかったので、復活を信じる信仰に生きるというところまでには至らなかったということだと思います。
 この空になった墓の状況を伝える言葉は、イエス様が復活されたことを証ししているとも言われます。マグダラのマリアは、イエス様の遺体を誰かが運び去ったと考えました。墓から遺体がなくなっていたとしたら、誰かが運び去ったと考えることは自然なことかもしれません。しかし運び去ったのなら、そこに亜麻布と頭を包んでいた覆いが残されていたというのは不自然だというのです。亜麻布は包帯のように遺体に巻き付けてあった布です。運び去る人が、わざわざ墓の中で、遺体に巻き付けてあった布をほどいて運び去るのは不自然であり、そこに亜麻布と覆いが残されていたということが、イエス様の復活を証ししているというのです。
 なるほどと思います。確かに不自然です。ただペトロともう一人の弟子について「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と記されていますように、イエス様の復活を信じるということは、聖書の言葉を信じるということと言えるのです。私たちにとりましては、イエス様ご自身が、弟子たちに告げられた復活についての言葉を信じること、そのことを記す聖書の言葉を信じることだと言ってよいでしょう。
 亜麻布と覆いが残されていたという空の墓の様子は、「見て、信じた」というもう一人の弟子と同じように、私たちを復活を信じる入口に立たせてくれるかもしれません。しかし復活を信じる信仰に生きるためには、イエス様の言葉を信じなければならないのです。ただそれは、イエス様の言葉を理解できないまま、納得できないまま、無理やり信じるというようなことではありません。
 イエス様の墓で泣いていたマグダラのマリアは、復活の主と再会し、復活を信じる信仰に生きる者となったと言ってよいでしょう。その時彼女に起こったことは、イエス様が彼女に働きかけたということです。そのことを考えたいと思います。
 墓で泣いていたマリアはイエス様に話しかけられても、その方がイエス様だと分からずに、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。この彼女の言葉は、これからの自分はイエスという方の死を悼みながら生きていこうとしている言葉のように思います。イエス様が亡くなられて希望も生きる意味も失ってしまった彼女は、そのようにすることしかできないでいたのでしょう。
 そのような彼女にイエス様は、「マリア」と声をかけられました。マリアにとってイエス様との関りは既に過去のものになっていて、彼女はその過去にすがることしかできないでいたわけですが、「マリア」と呼びかけられたイエス様は、彼女との生きた関わりを再び始めようとされたのです。
 ただ聖書は、「ラボニ」と答えたマリアにイエス様が「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われたことを記しています。すがりついていけないのは、イエス様が父なる神のもとに昇っていないからというのです。天に昇らたら、すがりついてもよいということでしょうか。天におられるイエス様にどうして、すがりつくことができるでしょう。しかし復活のイエス様と共に生きるということは、天におられるイエス様にすがりつくことだと、天のイエス様を自分の目で見て、自分の傍らに感じて生きることだと思うのです。
 復活のイエス様と再開したマリアは、イエス様に従って旅をしていた頃の生活に、もう一度戻ることができると考えたのだと思います。しかし復活の主と共に生きるということはそのようなことではないと、イエス様はマリアに教えられたのだということです。
 私たちは今を生きています。喜びや幸いを感じることもありますが、それ以上にさまざまな困難、苦しみや悲しみがあると感じことも少なくありません。私たちは、イエス様の遺体を包んでいた亜麻布や覆いが残されていた世界を生きているのです。
 復活されたイエス様は、そんな私たちが生きる世界から離れて遠くに行かれ、そこから私たちを見守ってくださっているというのではありません。死に勝利され天に昇られた方は、この現実を生きる私たちと共にいてくださるのです。それが復活のイエス様と共に生きるということです。
 マリアが向かった墓に、イエス様はおられませんでした。しかし墓が空になっていたことに悲しんでいたマリアと共に、イエス様はおられたのです。イエス様を見たマリアは、「それがイエスだとは分からなかった」と記されています。マリアがイエス様と気づく前から、主は彼女と共におられたのです。私たちが気づいていなくても、この現実を生きる私たちとイエス様は共にいてくださいます。
 ところでマリアはイエス様を見ても、どうしてその方がイエス様と気づくことができなかったのでしょう。ある人は彼女が泣いていたために涙でぼやけて見えなかったと考えます。ある人は彼女の頑なな悲しみがイエス様を見えなくしていたと考えます。また復活のイエス様は姿を変えておられたので、気づくことができなかったと考えることもできます。確かに復活のイエス様と再会しても、すぐにイエス様と気づくことのできなかった弟子たちのこと(ルカ24.16他)を聖書は記しています。
 マリアも同じだったのかもしれません。しかし大切なことは、彼女がイエス様に気づけたということです。それはイエス様が彼女の目を開いてくださったからだと考えていいでしょう。そして、マリアは、弟子たちのところに行って「わたしは主を見ました」と告げたのです。私たちも復活の主の証し人となって、復活の主を伝えていく者にされたいと思います。(2021年4月4日)