「約束の主」-聖霊降臨祭説教
ヨハネによる福音書 15章26~27節,16章4b~15節
聖書には、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来る」(マルコ1.10)のを、イエス様が御覧になったことが記されています。聖霊は鳩のようであったというのです。今日の第一の日課であります使徒言行録には、聖霊について「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。またヨハネの福音書(3.8)には、イエス様が聖霊は風のようだと教えられた箇所もあります。聖霊について聖書は、鳩のようであり、炎のようであり、舌のようであり、また風のようであると教えているのです。聖霊とはどのような存在なのでしょうか。
今日は聖霊降臨祭です。聖書にありますそのような聖霊について記されている箇所を読んでも、聖霊がどのような存在なのか、よく分からないと感じるのが正直なところかもしれません。今日の使徒言行録の日課(2.1-21)には、更に不思議と感じるようなことが記されています。
聖霊が弟子たち一人一人の上に降ったときに、弟子たちは「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というのです。弟子たちは、聖霊によって知らないはずの国々の言葉を話し出したのです。聖霊の不思議な働きと言えます。
それで、エルサレムに住んでいた、さまざまな国の出身であるユダヤ人たちがそこに集まってきて、自分たちの生まれ故郷の言葉を聞いたので、人々は驚き怪しんだとあります。新しい酒に酔っているのだとあざけった人々もいたというのです。そのような人々の反応が記されているのですが、私たちが心を向けるべきことは、その後だと思います。ペトロが十一人と共に立って、「わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」と話し始めたいうことです。
ペトロは、驚いている人々に、また弟子たちをあざけっている人々に私の話すことを聞いてくださいと、冷静に語りかけたのです。このペトロの言葉も、聖霊の力によって語ったことだと言ってよいでしょう。
聖霊降臨祭は教会の誕生日と言われます。使徒言行録に記される、弟子たちに聖霊が降ったという出来事が教会の始まりとされているということです。弟子たちの群れはそれまでもあったわけですが、この出来事を教会の始まりとしているということは、この弟子たちに聖霊が降ったという出来事によって弟子たちが宣教を開始したからです。
この後、弟子たちはイエス様の十字架と復活を伝えるためにさまざまな国に出かけていくことになります。しかし弟子たちは、その先々で聖霊によって知らない国々の言葉を話し出したわけではありません。そういう意味では、弟子たちがさまざまな国の言葉を話し出したというのは象徴的な出来事です。聖霊降臨がイエス様に降ったときに鳩のように見えたのも、弟子たちに降った時に炎ように、舌のように見えたのも、聖霊が降ったということを知らせるための特別な出来事であった言ってよいでしょう。
それでも、その後も弟子たちは聖霊の力を受け、聖霊によって語ったのです。弟子たちの口が勝手に動いたというようなことではありません。ペトロが人々に「わたしの言葉に耳を傾けてください」と話したかけたように、弟子たちは自分の言葉で、しかし聖霊によって語ったということです。
今日の福音書の日課で、イエス様は聖霊の働きについて教えておられます。十字架の時が迫っている中で、弟子たちとの別れの時が近づいている中で、イエス様が語られた言葉です。この後弟子たちに対する迫害が始まるという状況の中で教えられたことです。
「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである」とあります。迫害はイエス様に向けられるものですから、イエス様と弟子たちが共にいたこの時までは、迫害はもっぱらイエス様に向けられていたわけです。しかしイエス様がおられなくなると、迫害はイエス様の弟子たちに向けられることになります。その時に弟子たちのところに聖霊が来られるというのです。
「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」とイエス様は言われました。これまではイエス様が弟子たちと共にいて、弟子たちを守って来たけれども、これからは弁護者と呼ばれている聖霊が弟子たちと共にいて、彼らを守ってくださるということです。
「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われていることを考えますと、イエス様が共にいてくださったこれまでと変わらずに守ってくださるということだと、あるいはこれまで以上に守ってくださるということだと受け止めることができます。
確かに聖書に記されています弟子たちのことを考えますと、イエス様と共に過ごしていた時の弟子たちは、イエス様の教えを理解せずに、失敗を繰り返していました。しかし聖霊降臨の後の弟子たちは、今日の使徒言行録の箇所のペトロもそうですが、力強く福音を語ったように感じます。イエス様と共にいた時とは違う弟子たちの姿を使徒言行録は記しています。
イエス様の十字架と復活を経験して、挫折と罪の赦しを経験して、弟子たちが大きく成長したということも事実だと思います。しかしそれだけでなく、弟子たちの時代になり、聖霊が弟子たちに力づけたということを考えることも間違いではないはずです。
イエス様は聖霊を「弁護者」と呼んでおられます。この弁護者という言葉は、1954年に翻訳された「口語訳聖書」では「助け主」と訳されていました。この言葉は「傍らに呼ばれた者」という意味の言葉で、それは助けるために傍らに呼ばれた者のことで、助け主、慰め主ということになるわけです。裁判の時に助けるために呼ばれた者とすれば、弁護者ということになります。弟子たちに迫害が迫っている中で、彼らのために呼ばれ、傍らにいて彼らを助けるために語る方ということになります。
15章の終わりに「弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる」とあります。聖霊が弟子たちの所に来られ、彼らを助けるためにイエス様について証しをすると教えられているのです。イエス様を証しすることが、迫害を受ける弟子たちを助けることになるわけです。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」とも教えられています。それはひと言で言えば、罪が明らかにされるということです。世の罪が明らかにされる、イエス様を認めなかった罪が明らかにされるということです。先ほども申しましたように、不思議な出来事としてではなく、聖霊が働いてくださりイエス様から聞いた言葉を通して、私たちにとりましては、聖書の言葉を通して語るべき言葉が与えられる、罪が明らかにされるということです。
世の支配者が断罪されることという厳しい言葉も記されています。世を支配する悪、この世界に確かにある悪の力が断罪されるということを考えてよいと思います。イエス様は「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(ヨハネ12.47)と言われる方です。イエス様は赦すために十字架へと進まれたのです。
そして、私たちは、私たち自身の罪が明らかにされるということを考えたいとも思います。その時も聖霊が私たちを助けてくださると考えてよいでしょう。私たちの罪を赦すために主が十字架へと進まれたように、聖霊は私たちの罪を赦すために私たちを助けてくださるのです。
私たちは父なる神に祈ります。神と私たちの間を執り成してくださったのがイエス様です。私たちは父なる神に向かうように、またイエス様に向かうように、聖霊なる神に向かっていないと思うかもしれません。確かにそうなのですが、父なる神と私たちの間に入って執り成しをしてくださったのがイエス様であるなら、聖霊なる神は私たちの傍らで、私たちの背後で私たちをイエス様へと押し出してくださる方だということを考えてよいと思います。私たちの一番近くにいて、私たちの心に働きかけて私たちをイエス様へと、父なる神へと押し出してくださる方です。
イエス様の十字架によって赦され、神の前に進み出た私たちは感謝と喜びのうちに、主の十字架と復活を証しするために人々のところに遣わされていくのです。その時も聖霊なる神が共にいてくださり、語るべき言葉を与えてくださると、勇気と力を与えてくださると約束されているのです。聖霊の力を受けて主の働きに用いられたいと思います。
(2021年5月23日)