「平和を祈る」-平和主日説教

ヨハネによる福音書 6章1~15節
 私たちの日本福音ルーテル教会では、8月の第一日曜日を平和主日とすることができると定めています。「平和主日」と呼ばれることが多いと思いますが、ルーテル教会の礼拝の指針を記した文書などには「平和祈願日」という名称も使われています。
 「平和祈願日」、神に平和を祈り願う日ということになります。確かに、平和主日の礼拝をどのように説明しているかと考えてみますと、「平和を祈り求める礼拝」という言い方をしているように思います。
 ただルーテル教会では、礼拝について、私たちの行為がその中心にあるのではなく、神の行為がその中心にあると考えています。つまり神が私たちへ注いでくださる恵みが、救いの出来事が礼拝の中心だということです。ですから、神に平和を祈るという私たちの出来事の前に、私たちを祈りへと押し出す神の恵みを覚えることが大切です。私たちは、その神から私たちへの働きかけに、まず心を向けたいと思います。
 神に平和を祈り求めるこの平和主日の礼拝において、まずみことばを通して神から恵みを受け取り、その恵みに押し出されて、平和を祈る者、平和を実現する者として歩み出していきたいと思うのです。

 聖書は、ヨハネの福音書が伝える、イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人もの人々を養われたという箇所です。イエス様がガリラヤ湖を舟で渡られた時に、主の後を大勢の人々が追いかけて来るという状況がありました。
 この時のことをマルコの福音書も記していますが、そこにはイエス様が舟で向こう岸に渡るために出て行かれたことに気づいた群衆が、徒歩で先回りをして、到着されるイエス様を待っていたということが記されています。そのような主を待っていた群衆がおり、更にその後にも主の許に駆けつける大勢の人々がいたのだと思います。
 そんなご自分の方にやって来る人々をご覧になったイエス様は、十二弟子の一人であるフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。
 聖書はこの言葉について、「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と説明しています。イエス様がフィリポを試みられたとはどういうことでしょう。試みるという言葉には、誘惑するとか罪に誘うというような意味もありますが、もちろん、この出来事はそのようなことでありません。イエス様は、フィリポを、弟子たちを教えようと、訓練しようとされたのです。
 私たちはこの箇所を通して、イエス様がフィリポを試みようとされたことも、その後に主が何をされたのかも知っているわけです。そのことを踏まえて考えたいと思います。イエス様が私たちに対しても同じように「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたら、私たちは何をすることができるのでしょうか。聖書を通してこの出来事の顛末を知っている私たちは、イエス様の御心を理解していると言えるのでしょうか。
 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」、現代を生きる私たちに対してこの言葉はどのような問いかけになるでしょう。イエス様のように五つのパンと二匹の魚で五千人もの人々を養うという奇跡を私たちが行えるわけではありません。イエス様がそのような奇跡を起こしてくださることを期待して祈るということが御心を行うことだとも思えません。

 ヨハネの福音書は、イエス様を「言」と言い表し、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記し始めています。そして、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と教えています。イエス様は、父なる神と共にこの世界を創られた方だということです。ですからイエス様は何もないところからでも五千人もの人々を養うことができたと考えるべきです。
 しかし、イエス様は、弟子のアンデレが五つのパンと二匹の魚を持っている少年を連れてきた時に、そのパンと魚を受け取られました。アンデレが少年の食べ物を取り上げたとは考えられませんから、少年が自分のパンと魚をみんなに食べて欲しいと申し出たのでしょう。アンデレには「こんなに大勢の人では、何の役にも立たない」と思われたパンと魚でした。しかし主はパンを取り、また魚を取り、感謝の祈りを捧げ、そのパンと魚を人々に分け与えられたのです。
 何もないところからでも必要を満たすことのできる方が、少年が差し出した五つのパンを二匹の魚によって、五千人もの人々を養われたということには、大きな意味があるように思えます。
 この出来事について、よく知られています解釈の一つに、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年に注目するものがあります。そこに集まっていた大人たちの中には、自分の袋の中に食べ物を持っていた人も大勢いたというのです。しかし食べ物を持っていない人々もいたので、皆自分の分としてしまっておいたのです。つまり自分の食べ物を、持っていない人々と分け合おうという発想はなかったのです。
 そんな中で、一人の少年が自分の食べ物を差し出し、イエス様がそのことを喜ばれたので、食べ物を持っていた人々も自分たちのすべきことに気づかされ、同じようにするとみんなが満腹して、なお十二の籠にいっぱいになったという解釈です。
 イエス様は、何もないところ必要を満たすことがおできになる方ですから、主のなされた奇跡の種明かしのようにして、そのように解釈することはふさわしくないように思います。ただ私たちの出来事として、そのような在り方を考えて、この出来事をそのように解釈するのであれば、それも御心に適ったことではないかと思います。主の御心を行うための私たちの在り方として考えるということです。
 聖書には、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた」と記されています。無駄にならないように集められたパンは、そこにいなかった人々と分け合うためのパンとするということではないでしょうか。

 平和は人と人の間に生まれるものです。一人では平和を作り出すことはできません。しかし、二人でいるところに平和を作り出すことはできるのです。お互いのことを思い合い、与えられた恵みを分かち合う歩みを始めていくときに、そこに小さな平和が生まれるのです。
 五千人分ものパンを用意することなど、とてもできないように思えたとしても、自分の隣にいる人と恵みを分け合うことが、大勢の人々の間に平和を実現していくことの第一歩になるということを思います。けれども、その小さなことさえ難しいことのように感じているのが、私たちの正直な思いかもしれません。
 今日の第二の日課であったエフェソ書に「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」、とありました。イエス様が私と私の隣にいる人の平和だというのです。人と人と間に主が来てくださり、そこにある敵意という壁を取り壊してくださるのです。
 このことを考える時に忘れてはならないことがあります。その後に「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」とあることです。人と人の間に平和を作り出すものは、イエス様の十字架なのです。
 十字架は私の罪の赦しのためのものであるだけでなく、人と人の間に和解と平和をもたらすものだと聖書は教えているのです。私の罪が赦されるということは、私も人を赦し、主の恵みを人と分かち合って生きていく者となっていくということです。
 イエス様は「平和を実現する人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5.9)と言われました。しかし、平和を実現していない私たちを、イエス様はただ十字架によって神の子としてくださったのです。神の子とされた私たちは、平和を祈り、実現する者として祝福の内に歩み出していくのです。主の赦しをしっかりと受け止め、感謝と祈りをもって、平和を作り出す一歩を踏み出していきたいと思うのです。
(2021年8月26日)