「もう一度初めから」-宗教改革日説教

マタイによる福音書 11章12~19節

 「ルーテル教会はどんな教会ですか」、そんな質問を受けとしたらどのように何と答えるでしょうか。先日、他の教派の教会の方とお話をする機会があり、そんな質問を受けました。私は「ルーテル教会は、赦しを語り続ける教会です」と答えました。繰り返し罪の赦しを語るということは、繰り返し赦しを聞くことでもあるわけですから、私たちの心の中に罪を犯すことに対する油断が生じたり、信仰的に成長しようとする思いが弱くなったりするような部分があることも事実です。そのようなことを素直に認めて、そうならないように気を付けなければなりません。けれども、だから赦しを語るのは少し控えようとはならないのがルーテル教会だと、それでも赦しを語り続けるのがルーテル教会だと思います。十字架の赦しを語ることは、何よりも大切なことだからです。繰り返し罪を赦されること、そして赦された者として歩み出すことが、私たちの信仰の歩みであるということを思います。

 10月31日、今日は宗教改革日の礼拝です。そのような私たちの信仰の歩みを確認したいと思います。この礼拝で与えられましたみことばは、マタイの福音書の11章に記されるイエス様の言葉です。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と始まっています。「彼が活動し始めたとき」とある彼は、洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネは、救い主が到来することを人々に知らせ、その備えをさせた人、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた人です。預言者の一人に数えられることもあります。旧約聖書に登場する預言者のように、神の言葉を民に取り次ぐ働きを担ったからです。そのヨハネはヘロデによって捕らえられ、その活動は終わります。そして、ヨハネと入れ替わるようにして登場され、救い主として活動されたのがイエス様です。マタイの福音書は、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3.2)と言って登場し、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことを記し、そしてヨハネが捕らえられた後に、イエス様が同じように「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4.17)と言って宣教を開始されたことを記しています。ヨハネの活動とイエス様の活動がつながっていることを示しているのです。天の国とは、神の国のことです。ヨハネも、イエス様も神の国が到来するので悔い改めるように、罪から離れて神に方向転換をするように呼び掛けたのです。ただヨハネは神の国と私たちをつなぐ道を備えるように呼び掛け、イエス様ご自身が、神の国と私たちをつなぐ道になってくださったという言い方ができると思います。

 今日の箇所でイエス様は、天の国、神の国が力ずくで襲われており、激しく襲う者が、神の国を奪い取ろうとしていると教えておられます。これは何のことを言っているのでしょう。神の国を奪い取ろうとしているというのは、神の国を攻撃しよう、破壊しようとしているのではなく、激しい力、強い力で神の国を求めているということではないかという理解もあるようです。言葉としては、そのような理解もできるということなのでしょうが、やはり神の国が激しく襲われ、攻められていると、激しく襲う者が奪い取り、破壊しようとしているということを教えられたと考えてよいでしょう。また、この激しく襲う者が誰なのかということもはっきりしません。イエス様はファリサイ派の人々のことを言われたのだとも、あるいはマタイの福音書は、この福音書が記された時代の、教会に対する迫害者のことを想定しているのではないかとも考えられているようです。そういったことを考えることもできるのかもしれません。けれども、今の私たちはもう少し広く、私たちから神の国を奪い取ろうとする悪の力と考えてよいように思います。そのような悪の力が確かにあり、私たちにも襲い掛かろうとしているということを思います。

 イエス様は「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」と言っておられます。この言葉も少し分かりにくいかもしれません。子どもたちの遊びの場面のようです。笛を吹いて踊ってくれなかったというのは、笛を吹いて結婚式ごっこをしようと広場にいる子どもたちを誘っているという状況で、同じように葬式の歌を歌って、葬式ごっこをしようと誘っているのです。しかし、誘われた子どもたちは、その誘いに応えなかったということです。洗礼者ヨハネが来て、神の国は近づいたと民に呼び掛けているのに、イエス様が来られ、神の国は近づいたと人々を神の国に招こうとしているのに、その誘いに応えないと、ヨハネのことは「悪霊に取りつかれている」と言い、イエス様のことは「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って、取り合おうとしないということです。イエス様の時代、人々は神の国を求めていました。主が示された神の国を、人々が正しく理解していなかったという理由はあったにせよ、それでも神の国の到来の知らせを聞き、招きの言葉を聞いても、人々は、結局は拒絶しました。初めは喜んでイエス様の許に集まっていった人々でしたが、やがて主から離れ、主を拒絶したことを福音書は伝えているのです。神の国を奪い取ろうとする悪の力が、人々に働いたからかもしれません。人々は、その力に負けてしまったということです。教会の歴史を振り返る時に、そのような神の国を奪い取ろうとする力は、絶えず働いてきたと言えるように思います。

 マルティン・ルターの宗教改革も、そのような中にあって、神の国を人々の許に引き戻そうとする神の働きのために力を尽くした出来事であったと言えるでしょう。神の国に迎えられるということは神の国の民として生きるということです。罪を赦され、愛なる神の民として神に迎えられ、神と共に、神の命を生きることが神の国に迎えられるということです。神の国にふさわしくない者が、にもかかわらず神からの一方的な恵みによって、赦されて神の国に招き入れられるのです。そして、私たちはそのためにイエス様が十字架へと進まれたことを忘れてはなりません。人々は神の国への招きに応えなかったのに、拒絶したのに、それにも関わらずなお人々を神の国に招き入れるために十字架へと進み続けられたから、だれもが神の国への招きを受けることができるようになったのです。

 私たちから神の国を奪い取ろうとする力は、今も働いていると思います。しかしイエス様は十字架にかかられ、死に打ち勝たれたのですから、神の国を奪い取ろうとする悪の力に対して勝利されたのです。だから私たちが主に従おうとしている限り、主は悪の力から私たちを守ってくださいます。それにもかかわらず、私たち自身の中に自ら神から離れようとする思いがあるということを考えなければなりません。それが罪に囚われているということです。愛なる神に迎えられ、神と共に生きることの素晴らしさを知っているはずなのに、あえて神から離れようとすることがあります。イエス様が取り除いてくださったはずの神と私の間にあった隔ての壁を、自分で再び作ろうとしていることがあります。私たちは、罪を赦された者であるにも関わらず、なお罪に生きる者なのです。そんな私たちだから、繰り返して罪を赦していただかなければなりません。繰り返し赦しを語るルーテル教会に生きる私たちは、繰り返し赦しを聞くことが出来るのです。ただ忘れてはならないことがあります。私たちは、罪と赦しの間を行き来するだけではないということです。罪を赦された後に、キリストの業を行うために歩み出していくことが大切なのです。たとえ、出て行ってもキリストの業を行うことができずに自分の罪を目の当たりにし、繰り返し悔い改めているとしても、実際そうなのですが、それでもあきらめずに、開き直らずに、赦された者としてキリストの業を行うために歩み出していきたいと思うのです。(2021年10月31日)