新年礼拝説教-「神の忍耐」
ルカによる福音書13章6~9節
私たちは、クリスマスまでの4週間のアドベントを「主を待つ時」として過ごしました。お生まれになる主を待つ時として、また再び来られると約束された主を待つ時として過ごしたわけです。そのことを考えていまして、大切なことに気づきました。それは主も私たちを待っておられたということです。私たち以上に、そしてアドベントの時だけでなく、ずっと前から、今も主は私たちのことを待っておられます。私たちが神に向かうことを主は待っておられます。主イエスを忘れて過ごす私たちが、主を再び思い起こすのを待っておられます。私たちが主の御心を行う歩みを始めることを待っておられるのです。
新しい年を迎えました私たちの最初の礼拝で私たちに与えられました聖書の箇所は、そのことを私たちに教えていると思います。聖書は、ぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえ話です。ある人がぶどう園にいちじくの木が植えられておいたとあります。ぶどう園ですから、そこはぶどうの木を植える場所なのですが、ぶどう園で働く農夫たちが、いちじくの木の木陰で休憩をしたり、その実を食べたりするためにいちじくの木を植えるということがあったようです。ですから何本も植えるわけではありません。たとえのいちじくの木も、ぶどう園に植えられたただ一本のいちじくの木だと考えてよいでしょう。そのいちじくの木が実を付けないというのです。ぶどう園の主人は「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない」と言っています。木を植えて実を付けるはずの年を迎えても実を付けない、次の年も期待をして見に来たけれどもまだ実を付けていない、そして三年目を迎えたけれど、今年も実を付けていないというのです。主人は「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と園丁に命じています。
この木が今年、実を付けたとしても、主人や農夫たちがいちじくの実を口にすることができるのはまだまだ先のようです。旧約聖書のレビ記(19.23-25)には、実を付けても三年の間は食べてはならず、四年の実は主への献げ物とし、五年目にようやくその実を食べることができるということが定められているからです。今年、主人がこのいちじくの木に実を見つけたとしても、実際にいちじくの実を食べることができるのは四年後ということになるのです。主人は既に三年も待ったのです。実を付けたとしてもまだ待たなければならないということを考えますと、最初に実を付けなかった時に植え替えるべきだったとも言えます。ですから主人は、忍耐強く三年もの間いちじくの木が実を付けることを待っていたと言えるのです。
けれども、更に忍耐強い人がいました。園丁です。園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください」と願ったというのです。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」とも言っています。当時の栽培方法から言えば、いちじくの木に肥料をやるということはありえないことだったようです。園丁は、あきれるほどの忍耐力といちじくの木に対する執着をもっていると言えるのです。
たとえ話の主人は、神です。そして、園丁は主イエスです。そして実をつけないいちじくの木は、私たちだと言わなければなりせん。主人の忍耐強さは、私たちに対する忍耐強さです。更に上を行く園丁の忍耐強さは主イエスの私たちに対する忍耐強さなのです。神が、また主イエスが、忍耐強く私たちの悔い改めを待っていてくださるということをこのたとえは教えています。けれども、私たちは、たとえで主人が、「いちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」と言ったことを、園丁が「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言ったことを読み飛ばしてはならないと思います。切り倒されるということがあるから、つまり裁きというものがあるから、神は私たちを裁かなくてよいように待っておられる、主イエスは、働きかけてくださっているということなのです。
ヨハネの福音書(3.16)に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。よく知られている聖書の箇所、また多くの人が愛唱聖句としている箇所と言えますが、そのすぐ後に裁きについても記されていることを考えなければならないと思います。「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(3.18-19)。主イエスを信じないことが、既に裁きだと、光よりも闇を好むこと、それが裁きだというのです。ヨハネの福音書で教えられている裁きとは、悪いことをして罰が与えられるということではありません。光として来られた主イエスを信じないこと、主イエスを拒絶するということが裁きだと教えています。なぜ、それが裁きなのでしょう。主イエスを信じないところには、主を拒絶するならば、主がおられないからです。主がおられないということは、そこには救いがないということになります。希望もないということになります。だから、それがもう裁きになっているのです。神は、そして主イエスは、私たちが光の中を生きることを待っておられます。光とは、主イエスのことですから、それは私たちが主イエスと共に生きていくことを待っておられるということです。主が共におられることが救いであり、主を拒絶し、主がおられないことが裁きだということです。たとえの園丁は、いちじくの木が実をつけることを待っていました。しかしそれは、いちじくの木が付けるはずの実を待っていたというよりも、いちじくの木が実をつけることを待っていたと言ってよいでしょう。いちじくの実に対する執着ではなく、いちじくの木に対する執着であったということです。その園丁のいちじくの木に対する執着は、度が過ぎと言ってよいほどの執着は、主イエスの私たちへの愛の深さを表しているのです。それほどまでに私たちを愛しておられるということです。
それでは、いちじくの木が付ける実とは何でしょう。どのようなことを考えなければよいでしょうか。私たちが付けるべき実とは何かということです。私たちが、神にあって思い描く、こうあったらよいと思えるような私たちの在り方を考えてもよいと思います。このようになったらよいと思えるような教会の姿を考えてもよいと思います。お互いに大切にし合う、支え合い、祈り合う、喜びをもって人々を迎える、そんな私たちを、そんな教会の群れを思い描いていいと思います。けれども思い描くだけでは、それは単に理想であって、今年こそは実を付けることができるとは思えないのではないでしょうか。私たちが心に思い描くものを理想とするだけでなく、私たちの希望とするということです。実現するとは思えない理想は希望ではありません。今すぐに理想どおりではないとしても、やがて実現することを信じることのできるものが希望だからです。今すぐにではなくても、進んだり戻ったりすることがあっても、今年も一歩は、二歩は進んだと思えるような歩みをしていきたいと思います。少しずつであってもそこに向かって歩んでいるということを感じることのできる希望を持って歩んでいきたいのです。そして、そのような希望を私たちが持つことができるのは、私たちと共に主イエスがおられるからです。園丁は「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言ったのです。主イエスが実を付けるように手入れをしてくださる、主が私たちと共にいて、私たちに働らきかけてくださるということです。そこに希望があるのです。私が何かをしようと考えることは大切なことです。ただそれ以上に主が与えてくださる希望を信じることが、今の私たちには大切であるように思います。必ず実現すると信じることができればこそ、その希望を実現するために私たちも歩み始めることができると思うからです。主の裁きを恐れるからではなくて、主の深い愛を知っているから、共にいてくださる主に希望を与えられて、今年の歩みを始めていきたいと思います。私たちは、なお困難と不安を感じる中にいますが、そのような中にあっても希望をもって歩み出したいと思うのです。(2022年1月1日)