降誕礼拝説教-「闇を照らす光」

ヨハネによる福音書1章1~14節
 教会では、降誕祭、復活祭、聖霊降臨祭を三大祝日と呼んでいます。どの祝日も大切なのですが、その中で殊更大切なのは、降誕祭と言いたいところですが、復活祭、イースターです。復活祭は、十字架に死なれたイエス様が復活されたことを覚える時であり、この十字架と復活が、私たちの信仰の中心にある出来事だからです。神の救いの業が成し遂げられた時であり、私たちの信仰は今も生きて働かれる復活の主によって与えられるものです。聖霊降臨祭、ペンテコステは、弟子たちに聖霊が降ったことを覚える時です。キリスト者の群れである教会には、つまり教会に連なる私たちには、十字架と復活によって成し遂げられた神の救いの出来事を、聖霊に導かれて告げ知らせていくという働きが与えられています。私たちが今迎えています降誕祭、クリスマスはと言いますと、それは神の御子が世の救い主として、私たちの世界に来てくださったことを覚える時です。それは私たちそれぞれが、お生まれになったイエス様を、今も生きて働かれるイエス様を、私の救い主として自分の心にお迎えする時であるということを思います。信仰の歩みは繰り返し更新されなくてなりませんから、一度心に主をお迎えしたらそれで完成というのではなく、何度でも新たな思いでイエス様を、自分の心にお迎えするということが大切なのです。
 このクリスマスの礼拝で与えられました聖書の箇所は、ヨハネの福音書1章1節からです。とても印象的なこの箇所は、この福音書の序文と言える箇所です。ヨハネの福音書には「大切なことを初めに記す」という特徴があると言えます。ですから、この序文を含めた福音書の初めの辺りには、大切なことがいくつも記されているということになります。今日の箇所には大切なことが詰まっているのです。大切なことを初めに記すこの福音書の特徴とは、例えば他の福音書で、弟子たちがイエス様を救い主と認めるのは、福音書の中盤(マルコ8.29)になってからですが、ヨハネの福音書では今日の箇所の少し後、1章で既にアンデレが兄のペトロに「メシアに出会った」と伝えています。他の三つの福音書がイエス様の十字架の直前の出来事として記す、主がエルサレムの神殿で商売をする者たちを追い出されたという「宮きよめ」の出来事をヨハネの福音書は、その活動の初め(2.13以下)に記しています。ヨハネの福音書は、時間的な順序にあまりこだわりを持っていなかったようでして、このイエス様の象徴的な出来事を、主の宣教を象徴する出来事として、その初めに記しているのです。
 それではイエス様を「言」と呼び、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記し始めています、今日の箇所にある大切なことは何でしょうか。この短い文章にも、イエス様が言であるということ、神であるということが記されています。続けて読みますと、イエス様が命であるということ、光であるということが記されています。そしてこれらの大切なことは、その後の福音書全体の中で、イエス様の教えや業、また出来事を通して再び記され、その大切なことが詳しく説明されています。
 イエス様は「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった」(12.49)と言われ、また「わたしを見た者は、父を見たのだ」(14.9)と言われました。イエス様が語る言葉は、神が命じた神の言葉であり、イエス様を見ることは神を見ることだと教えられたのです。イエス様が言であるということは、神が私たちに分かるようにイエス様を通してご自身を示されたということです。復活の主が弟子たちに姿を現された時に、そこに居合わせなかったトマスに対して、イエス様はご自身を示され「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。その時、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」(20.28)と告白しました。ヨハネの福音書は、神が私たちの救い主となられ、救いを成し遂げられたことを記しているのです。イエス様は五千人もの人々を養われた後に「わたしが命のパンである」(6.35)と言われました。ラザロの死を悲しむ姉のマルタに「わたしは復活であり、命である」と言われました。ヨハネの福音書はイエス様が私たちに永遠の命を与えてくださる方であること、主ご自身が私たちに与えられる命であることを教えています。イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8.12)と言われ、また「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た(12.46)と言われました。主はご自分が暗闇を照らす光であることを繰り返し教えられたのです。
 けれども私たちは、もう一つのことを考えなければなりません。ヨハネの福音書が、その初めに「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記していることです。このこともこの福音書が最初に記している大切なことです。そしてこの暗闇が光を理解しなかったということも、福音書全体の中で繰り返し記されていることなのです。人々は、イエス様を理解せずに拒絶し続けました。イエス様を王にしようと多くの人々が、主の許にやって来たのに、やがて主に従っていたそのほとんどの人たちが離れていったことを記している箇所(6.66)もあります。そうして人々に拒絶された主は、捕らえられて十字架につけられたのです。私たちはどうでしょうか。光が暗闇を照らすということは、暗闇の中にあるものが露わにされるということです。露わにされたものが善いものならよいのですが、そうではなく自分でも目を背けたくなるようなものの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。自分勝手な思い、人を疎ましく感じたり、軽蔑したりする思いがあると言わなければなりません。人を押しのけても自分を大切にしたいという思いもあります。ただそういった思いを人の前に出してしまえば、自分自身が軽蔑されてしまうので隠しているのです。私たちの心には隠されている罪が確かにあるということを思います。そういった罪が露わになることは、決して楽しいことではありません。また暗闇の中にいると罪が魅力的に見えてくるものだと思います。それで私たちには、光よりも暗闇を好むのではないでしょうか。ただ暗闇が光を理解しなかったことと共に、この福音書が伝えていることは、それでも主が暗闇の中で光として輝き続けられたということです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と伝えているのです。世のすべての人が暗闇の中におり、そのすべての人の光として神であり、命である方が来てくださったのです。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。これがヨハネの福音書が記すクリスマスの出来事です。言であり神である方が、私たちの間にまことの人となって来てくださったということです。この「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という箇所を、岩波訳と呼ばれる翻訳では「ことばは肉なる人となって、われわれの間に天幕を張った」と訳しています。宿るという言葉は天幕を張るという意味であり、天幕を張って住む、宿るということになるからです。そしてこの天幕を張るという言葉に、「神が幕屋に宿る」という意味を考えることができるのです。聖書で天幕と幕屋は同じ言葉で、人が住む場合は「天幕」、神のための天幕は「幕屋」と訳されているようです。幕屋はイスラエルの民が荒れ野の生活していた時に、神に向かい神を礼拝するために用いられ、後に石で造られた神殿となりました。神がまことの人として私たちの間に宿られたということ、イエス様がお生まれになったということは、私たちが神とお会いすることが出来るようになったということです。「宮きよめ」をされたイエス様は、ご自身が神殿となられ、十字架と復活によって、私たちが神とお会いし、神を礼拝する道を開いてくださったということです。その礼拝は、神が私たちにご自身を示し、救いを示し、命を与えてくださるという出来事なのです。この計り知れない恵みに感謝をしたいと思います。イエス様を、私の救い主として自分の心にお迎えて、この恵みの出来事を伝えるために遣わされたいと思うのです。(2021年降誕祭)