2024.9.1説教—「潔白」

聖霊降臨後第15主日

マルコ7章1-23

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、

7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。

7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。

7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。

7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、

7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。

7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。

7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。

7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。

7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。

7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、

7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、

7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

ヨハネ福音書による「パンにまつわる話」がようやく終わり、今年の基調福音書となっているマルコによる福音書に聖書日課が戻ってまいりました。

ヨハネ福音書は、クラシック音楽で言うならばベートーベンのような印象を受けます。それは、従来の福音書に比べて、斬新であり、独創的であり、挑戦的な印象を受けるからです。私にとってヨハネ福音書は、ドキドキと胸騒ぎのする福音書です。

これに対し、マルコ福音書は当時の人々が初めて触れた福音の原点、素朴で、新鮮で、安心感を覚えます。

さて、本日はマルコによる福音書7章1節から、「昔の人の言い伝え」と小見出しが付けられています。

登場人物は、7章1節、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」

とあるように、ユダヤの宗教指導者たちであります。

わざわざ「エルサレムから来て」とありますから、場所はマルコ福音書6章に続くガリラヤ湖西岸、カファルナウム近く、ゲネサレト周辺の村と思われます。

ここでの出来事は、7章2節、

「そして、イエスの弟子たちの中にケガれた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」

ということから始まります。

そして、7章5節、

「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。 『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、 ケガれた手で食事をするのですか。』」

と問うたのです。

出来事の発端を見ますと、 イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかった、ということが問い詰められているように思われます。

しかし、ここでは「ヨゴれた手」ではなく、「ケガれた手」と繰り返されており、ヨゴれた手を洗う問題ではなく、宗教的な意味である「ケガれた手」を「キヨめる」問題であることがわかります。

事実、このことの説明が3節と4節にあり、

「――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――」

とあり、「身を清めてからでないと食事をしない」という、昔からの習慣・言い伝えが述べられています。

この出来事をきっかけとして、 イエスは形骸化してしまったユダヤ教と、人間の都合でゆがめらた信仰生活や価値観を問われていきます。

「昔の人の言い伝え」と呼ばれるものの源流は、イスラエルの歴史から見ると、もちろん「十戒」にさかのぼります。

「十戒」が記録されている箇所は二つ、出エジプト記20章3節以下と、申命記5章7節以下にあります。

特に申命記では、十戒の告知の最後、5章22節で「それに何も加えられなかった」と締めくくられているのが印象的です。

にもかかわらず、その後の歴史の中で「あまたの」約束事が加えられて行きます。これらの「オマケ」が、いわゆる「昔の人の言い伝え」と呼ばれるものでありましょう。

出エジプト記20章20節に、神からの「十戒」を恐れる民に対し、モーセが語りかける言葉があります。

「モーセは民に答えた。『恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。』」

と。

「十戒」すなわち「神との契約(約束)」は、まだ民が行動し始める前に約束が先行しています。

つまり、イスラエルが荒野をさまよう中、まだなすすべのない時に、「主の民」とされることから神による救済の歴史は始まったのです。

ここでは、神への感謝という主題のもとで民の服従が考えられています。

「十戒」は、神からイスラエルの民への「祝福」として、すえられています。

これに対し、「呪いの十戒」として記されている箇所もあります。(♯今風に言うならば、黒十戒、裏十戒でありましょう)

人間のズルさを鋭く突いた表現がありますので、こちらもご紹介します。

申命記27章9節から始まります。

「十戒」が「~せよ」と命じているのに対し、「呪いの十戒」は「~の過ちを犯す者は呪われる」と表現されるのです。

ちょうど、新約聖書のマタイ福音書5章の「山上の説教」が「貧しい人々は幸いである」と語りかけているのに対し、ルカ福音書6章の「平地の説教」で「富んでいるあなたがたは不幸である」と宣告する表現と似ています。

例を挙げれば、出エジプト記20章12節で「あなたの父母を敬え」とあるのに対し、申命記27章16節では、「父母を軽んずる者は、呪われる」となっています。

この「呪いの十戒」で注目すべき表現は「ひそかに」という言葉が二度用いられているところです。

一つは申命記27章15節「職人の手の業にすぎぬ彫像や鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、《ひそかに》安置する者は呪われる」とあり、もう一つは、24節「隣人を《ひそかに》打ち殺す者は呪われる」とあります。

どちらも、人の目に触れていないことが、神からも隠れている錯覚に陥らせています。逃れられぬ人間の愚かさを暴いています。

このように、「呪いの十戒」が《ひそかに》行われる罪について言及するのは、個々の意思に対する「告白」をうながすものとなっています。

そこで、イエスはイザヤの言葉を引用して問われます。

マルコ7章6節、

《イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」》

と。

そして、実例を挙げておられます。9節以下、

《更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。》

イエスご自身の言葉に、何も加えることはありません。

もはや、イエスは宗教指導者たちを相手になさいません。

14節、「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。 」とあるように、指導者に依存せず、彼らにごまかされず、群衆自身による目覚めをうながされます。

その群衆に向けて教えられたことは、15節、

「外から人の体に入るもので人をケガすことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人をケガすのである。」

でありました。

繰り返し、弟子たちにも教えられます。18節、

「イエスは言われた。 『あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人をケガすことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物はキヨめられる。』」

そして、ようやくイエスはケガれの基を告げられます。20節、

「更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人をケガす。』」

この一言を聴くまでに、随分と時間がかかったように思います。すべては自明のことでありました。

ここに具体例が挙げられています。21節、

「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

これらを見ると、すべては「関係」に現れる「悪」です。つまり、人と人の間に持ち込まれる「人の企み」でありました。

関係に企みを持ち込む者を、6節のイエスによる引用の中で、イザヤは「偽善者」と呼んでいます。

人間は「善」ならざる者。

「善」は神を指す言葉です。そして、神は「聖」でもあります。聖なる神、善なる神に「キヨさ」の根源があり、 ここに 「キヨめ」を司られる方がおられます。

19節に、

「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

という、不思議な表現があります。

「清められる」という言葉は、 「浄化する、 (金属を) 精錬する、キヨめる」という意味で使われます。

また、この語源は「罪を晴らす」という言葉に遡ります。

使徒言行録10章14節には、ペトロが食べ物に関する幻を見た体験が書かれています。

「しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。キヨくない物、ケガれた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神がキヨめた物を、キヨくないなどと、あなたは言ってはならない。』」

と。

人間の言い伝えによってケガされた食べ物の汚名を、神ご自身がキヨめておられる場面です。

この体験を通して、どういうわけかペトロは、ユダヤ人はキヨく、異邦人はケガれているという考えの間違いに気づかされます。実に不思議な体験です。

自分の心から、自分の口から出る言葉が、時に自分自身をケガすのです。

私たちはそれぞれに、日々慎重に自分の身を護っています。

外からの「違和感」や「異物」を怖れています。

しかし、象徴的な意味において(現実的なアレルギーがあるとか、ウイルスとかではなく)、 外から来るもの(他者の言動など)が、あなたをケガすことなど出来ません。

また逆に、自分から出る言葉や、他者から贈られる言葉が、あなたをキヨめることは出来ません。

「キヨさ」や「キヨめ」とは、神に関わる事柄であり、神による行為であるからです。何よりも、「キヨくなる」とは、「神のものとなる」という意味であるのですから。

かつて出会った或る方は、長い年月、「キヨい教会」を探し求めて来られました。 20回、 30回と教会の現実に失望しながらも、ある日、ついに理想の教会と出会えたそうです。

その人は牧師と面会し、「先生、この教会は完璧です。ようやく出会えた理想的な教会です。ぜひ私を受け入れてください」と懇願されたそうです。

牧師は「お褒め頂き、ありがとうございます」という言葉に続き、「どうぞ、いらしてください。歓迎致します。ただし、あなたが来られることによって、今までの完璧な姿ではなくなってしまうことをご承知ください」と述べられたそうです。

その人は牧師の言葉に落胆し、その教会をも去られました。

教会には様々な方が来られます。時には「悪意」を持った人が来る可能性もあります。

しかし、外から来るものに教会がケガされることはありません。それは、神の教会であるからです。

むしろ、 人間の集団であるという教会の現実の中から出て来る「人間の言葉」や「言い伝え」が教会をケガすのであろうと危惧しています。

私たちは、日ごとに、週ごとに、神よりの聖霊と御言葉をいただいています。

そこで最後に、「聴くに早く、語るに遅く」との御言葉を想い起こします。

ヤコブの手紙1章19節以下

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆるケガれやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」

だから、私たちには聖霊がおられ、御言葉があるのです。

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」