2024.9.8説教—「パンくず」

聖霊降臨後第16主日

「パンくず」

 

マルコ7章24-37

◆シリア・フェニキアの女の信仰

 7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。

 7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。

 7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

 7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

 7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

 7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 先ほどお読みしましたマルコによる福音書7章24-37節には、2つのエピソードが紹介されておりますが、前半の「シリア・フェニキアの女の信仰」から福音を聴いてまいります。

 

24節、イエスはティルスの地方に行かれた、と始まります。

すなわちユダヤの隣国であるシリア・フェニキアの女性とイエスによる癒しを巡る問答が取り上げられています。

注目しますのは、マルコ7章28節の、御言葉です。

《ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。》

という、かの有名な「パンくず」を求める願いです。

この女性の懇願に対し、

《それほど言うなら、よろしい。》

イエスは女性を受け入れておられます。

 

 同じ「パンくず」を求めるエピソードを伝えるマタイ福音書15章28節では、

《婦人よ、あなたの信仰は立派だ。》

とイエスがほめておられることには驚きです。

イエスが、「人間の信仰をほめる」という発言は多くはありません。

例えば、マタイ福音書8章で、百人隊長と呼ばれるローマ兵が部下の病気のいやしを願う場面で、

《すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。》

との言葉に対し、

《イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。》

とおっしゃっています。

 

 また、ルカ福音書7章44節では、宴会の席でイエスの足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、香油を塗った女性が紹介されますが、

《そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。》

と言い、この女性に対して、

《「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」》

とおっしゃっています。

 わたくし自身は、救いとは個人の信仰によらず、ただ神のあわれみによると根本的に受け止めておりますから、人々がその信仰によって救われていくことをイエスが評価してくださっていることに驚くと同時に、私たちが養われている信仰の可能性について、改めて大きな希望を示される思いです。

 

 さて、本日の主題は「パン」です。

 福音書の語る「パン」とは、日ごとの食卓のパンのことではありません。

「パン」とはイエスご自身を表し、指し示すシンボルです。

 このことについて、ヨハネ福音書6章でイエスご自身がくわしく説明されています。

6章27節、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」

33節、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」

35節、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」

48節、「わたしは命のパンである」

51節、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」

との御言葉があり、もはや聴き間違えようもなく、イエスご自身が「命のパン」であると告げられています。

また、マタイ福音書26章の「最後の晩餐」の場面では、

《「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である』」》

と、「パン」をイエスご自身であると定めておられます。

 それゆえ、洗礼を受けた者は、聖餐式の「パン」を通して、キリストご自身をいただいているのです。

 

 本日のマルコ7章24節からの場面であるティルスの地方とは、シリア・フェニキアという国に属する地中海沿岸の町々です。

 24節、

《イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。》

とあります。

 この女性の願いは、病気の娘を癒して欲しいというものでした。「汚れた霊に取りつかれた」状態という現象は、現代では医学的に様々考えられますが、当時は医者や占い師など「人の手には負えない病状」であったことがうかがえます。

 もはやシリア・フェニキアの国内には、この女性の娘が癒される術はなく、すでにシリアまで伝わっていたイエスによる癒しの評判を知った彼女は、イエスの訪れを聞きつけ、すがる思いで駆けつけたのでありましょう。

 

そもそも、イエス一行は、なぜ外国人の居住地へと訪ねて行かれたのでしょうか。

 かつてイスラエル王国であった地域に出かけ、国が亡ぶことによって離散したイスラエル人たち・同胞たちを探して旅をしておられたということでありましょう。

 26節、このギリシャ人女性は、ユダヤ人は外国人とは交流を持たないことを承知の上で、イエスに助けを求めます。

 27節、そこで、イエスはたとえをもって彼女に答えます。

《イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」》

と。

 28節、すると彼女もたとえをもって答えます、

《ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」》

と。

 29節、やり取りの末、イエスはこの女性を受け入れます。

《そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」》

イエスの受容と同時に、彼女の娘は癒されました。

ここで娘の信仰は全く問われてはいません。

母の執り成しによる娘の癒しです。

その後については、福音書は記していません。

おそらく、この母親は娘の待つ家路に着き、再びイエスと会うことはないのでしょう。

 

 この出来事から、私たちは二つのことを教えられます。

 一つは、イエスの宣教の第一の使命は、「まず、子供たち」、すなわち、マタイ福音書15章で補足されている「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」ということです。

 二つ目は、このギリシャ人女性をはじめ、折に触れて外国人の願いが聞き入れられるという、「恵みの先取り」が与えられているということです。

 

やがて「すべての人々」が救われる「時」が来る。

しかし、その「時」は今ではない。

では、その「時」とは、いつなのか。

それはイエスの十字架による受難の時・救いの成就の時が考えられています。

 

 図らずも、「子供たち」すなわち「イスラエルの家の失われた羊」である離散した同胞たちは、神が彼らのために用意された「命のパン」としてのイエスご自身を十字架へと追いやり、その恵みの権利を放棄します。

これにより、ユダヤ人以外のすべての人に、その恵みはもたらされることとなります。

 このことについて、のちに伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙11章11節以下で述べています。

《「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」》

こうして、「子供たち」のために神が用意された「命のパン」であるキリストは、すべての人々のための救いとなられました。

 

最後にもう一度「パン」について考えます。

「命のパン」であるキリストは、キリスト者にとって何であるのでしょうか。

それは、朽ちない食べ物である御言葉であり、福音と言えるでしょう。

その内実は、赦しであり、救いというものです。

そして、これらによってもたらされるものは、永遠の命でありましょう。

本日のマルコ7章でのギリシャ人女性は、ユダヤ人の食卓からこぼれる「パンくず」を求め、それに与ることによって娘の癒しを得ました。

このことは、神が与えてくださるものは「パンくず」でさえ、人を癒すということではないのです。

癒し、赦し、救いというイエスがもたらされる神の国は、病に伏す娘を母親に返されるという出来事以上に、親子そろって正当に神の国に迎え入れられる者とされることが目指されているのです。

シリア・フェニキア生まれのギリシャ人女性よ、やがてあなたはパンくずではなく、正真正銘のパンをいただく日が訪れる、というイエスの約束こそ、「命のパン」であるのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」


次週の説教題は「人生の流れ」です。