2024.9.15説教「人生の流れ」
聖霊降臨後第17主日
「人生の流れ」
マルコ8章27-38
◆ペトロ、信仰を言い表す
8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
◆イエス、死と復活を予告する
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日与えられました聖書日課は、マルコによる福音書8章27節から38節となっておりますが、(今年の2月25日の聖書日課で、すでに8章31節から38節までを読んでおりますので、)本日は27節から30節までの箇所を中心に読んでまいります。
イエス一行の伝道旅行の足跡を辿るならば、7章終わりのガリラヤ湖南東部のデカポリス地方周辺から、8章10節では「ダルマヌタ」という地方に舟で移動されています。
しかし、ダルマヌタという地方の所在は分かっていません。
8章22節ではガリラヤ湖北部のベトサイダに着いたと記されています。
そこから、遥か北の水源の町フィリポ・カイサリア地方が、本日の出来事の場所となっています。
紀元前20年、ヘロデ大王が皇帝アウグストゥスからこの町を与えられ、記念に皇帝の像を安置した神殿を建設しています。
その後、ヘロデ大王の息子フィリポが町を整備し、皇帝ティベリウスに敬意を評してフィリポ・カイザリヤと改名された町です。
ユダヤ教のラビ(指導者)によれば、フィリポ・カイサリアという町は、聖なる土地と異教の土地との境界線とされています。
つまり、イエスにおいては、これからエルサレムへの危機迫る旅に出るのか、あるいは、頑ななイスラエルを放棄すべきかという分岐点に立っておられることになります。
フィリポ・カイザリヤは異教と聖書による神信仰との境界線。神々の像や皇帝を崇める神殿の前で、イエスは弟子たちに信じるべきものを問われ、またイエス自らも決意を固められます。
27節、この町に立ち、イエスは弟子たちに問いかけられます。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」
私たちならば、何と答えるでしょうか?
神の子、救い主(メシア・メサイア)、キリスト、共に生きてくださる方・寄り添ってくださる方、神の心を教えてくださる方、体の病気や心の病を癒してくださる方、祈りを聴いてくださる方、神に執り成してくださる方、罪を赦される方、十字架に架かられた方、死の向こう側で迎えてくださる方、最後の審判をされる方などなど、それぞれの信仰によっていだくイメージがあることと思います。
28節、《弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」》
この弟子たちの答えを、皆様はどう聞かれたでしょうか?
弟子たちの口を通して伝えられる、町の人々によりイエスに与えられた名は、「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人」というものでした。
この彼らの答えは、現代の私たちにはピンと来ないものかもしれません。
ですが、当時の人々においては「最上級の高貴な名」であったのです。
にもかかわらず、キリストの内実を知らされているキリスト者から見れば、「なお足らぬ」というものでしょうか。
「洗礼者ヨハネ」とは、何者か?
言うまでもなく、キリストの道備えとして人々に悔い改めの洗礼をもたらした人物です。罪の赦しという恵みを、神殿によらず、祭司によらず、お金によらず、身分によらず、国籍によらず、ただ悔い改める心によって与えられると告げた人物です。
「エリヤ」とは何者か?
紀元前800年代後半に主に北イスラエル王国で活動した預言者です。
列王記上17章には「サレプタの母と子」という有名なエピソードがあります。
17:8 また主の言葉がエリヤに臨んだ。
17:9 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」
17:10 彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
17:11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」
17:13 エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
17:14 なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」
17:15 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。
17:16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
もう一箇所、エリヤが生きながらにして天に召された場面をご紹介します。こちらは列王記下2章8節以下。
2:8 エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。
2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。
2:10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」
2:11 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。
2:12 エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。
2:13 エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、
2:14 落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。
これらが預言者エリヤにまつわるエピソードであります。生きて天に召されたエリヤであったがゆえに、のちの洗礼者ヨハネやイエスの出現に際して、人々は驚きと期待を込めて、「エリヤの再来ではないか」と受け止めているのです。
29節、《そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」》
「メシア」とは、救い主を指す言葉です。「油注がれた者」というヘブライ語「マーシーアッハ」という言葉に由来します。旧約聖書時代には、物や人を聖別する時に油が注がれて来ました。特に新しい王の即位式では、王となる者の頭に油を注いだのです。
ですから、ペトロの「メシア告白」には、ユダヤの新しい王としての期待と、神の国到来の幻をもいだいていたことでしょう。
ここでペトロは、イエスによって「告白」を促されています。
27節では、イエスは弟子たちに「人々の噂」をお尋ねになりました。
29節では、イエスはペトロが言い逃れは出来ないほどの勢いで、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うておられます。
このイエスの問いかけにより、ペトロは「告白」を引き出されたのです。
ペトロはイエスの促しによって、「言うべきこと」を「告白」しました。
この「言うべきこと」がきちんと語られている言葉こそ、「告白」と呼ばれるものでありましょう。
水源の町フィリポ・カイザリヤでのペトロのメシア告白により、彼らのキリスト者としての人生の流れが始まります。
水が高みから低みへと流れるように、イエスの人生もまた、高みから低みへと向かい、社会から排除された人々に福音を語り、赦しと癒しとをもたらす旅が始まるのです。
「ペトロの告白」に続き、31節では、イエスから「受難と復活」の予告が語られます。
このイエスの予告に対し、32節で、ペトロがイエスをいさめています。
マタイによる福音書16章22節の言葉を借りますと、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というペトロの心からの思いが進言されています。
33節、しかしこれは、イエスによって「サタン!」と叱責されるものとなりました。
このように、人には言わずにはおれない言葉があります。しかし、果たして「言うべき言葉」であったのか、ということが問われます。すべてが「告白」とされるわけではないのです。
キリスト者は礼拝において御言葉を聴き、その応答として「信仰告白」を致します。
「ニケヤ信条」は325年のニケヤ公会議で採択され、381年のコンスタンティノポリス公会議で補足されたキリスト教の基本信条です。「二ケア・コンスタンティノポリス信条」と言います。特徴は、正教会、ローマ教会双方で用いられていることです。
「使徒信条」はローマ・カトリック教会で古くから使われて来た信条で、聖公会やルーテルを始めとするプロテスタント教会でも用いられています。
「主の祈り」も含めて、教会の「信仰告白」は400年という時間をかけて、神について、キリストについて、聖霊について、教会が議論を重ねてきた信仰の遺産です。
これらをもって「告白」とするならば、もはやキリスト者個人の思いを「告白」と呼ぶのは慎むべきことのように思われます。
御言葉への応答としての「信仰告白」ですから、聖書朗読をはじめ、説教もまた「正しい福音の宣教」が求められます。
もちろん、説教は牧師が話したいことを話すのではなく、与えられた御言葉から、「語るべきことを語る」ことが求められます。
礼拝で捧げられる「共同の祈り」もまた、祈りたいことを祈るのではなく、「祈るべきことを祈る」ことが求められるものでありましょう。
「告白」は、キリストを正しくキリストと言い表すことでありましたし、現代でもまた、正しく言い表すことです。
このことは、教会の共同の礼拝に限ることではなく、個人的にも心がけることはふさわしいことでしょう。
つまり、個人的な祈りや信仰の証しの機会にも、「して来たこと」や「したいこと」が語られる前に、神が「してくださったこと」や「約束してくださっていること」が確かめられるならば素晴らしい。
キリスト者の祈りは、「キリストの名」において祈られるものですから、キリストの名を持ち出すのにふさわしい「告白」が聖霊によって引き出されるものでありましょう。
教会が、神から賜ったものを分かち合う場となるならば素晴らしい。
独りでの祈りが、神から賜ったものを確かめる機会であるならば素晴らしい。そこには、神からの希望に満ちています。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
次週の説教題は「裸の王様」です。