2024.9.22説教「裸の王様」
聖霊降臨後第18主日
「裸の王様」
マルコ9章30-50
◆再び自分の死と復活を予告する
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
◆いちばん偉い者
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
◆逆らわない者は味方
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
◆罪への誘惑
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
次週の礼拝で「天使の日」を予定していますので、本日は今週と次週の福音書を合わせて、マルコ福音書9章30-50節までを読んでおります。
さて、34節を見ますと、「だれが一番偉いか」と議論する弟子たちの様子から、アンデルセンの童話「裸の王様」を思い出します。童話では、つまずかせる者と自らつまづく者の姿が描かれています。
本日の聖書日課では、イエスの弟子であるというおごりから弟子たちは自らつまずいて行くのです。
まず、9章38節の出来事から「つまずき」を考えますと、
「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」
という出来事においては、イエスの直弟子たちによる、偽の弟子集団への非難が書かれています。
ここで、イエスの弟子たちは、偽の弟子集団につまずいたのでしょうか?
そこで、直前に書かれている、マルコ9章28節の出来事を見ますと、
「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と尋ねた。イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』と言われた。」
とあります。
イエスの直弟子たちにさえ病気の癒しは出来なかったのに、偽の弟子集団には出来ていた、というのでしょうか?
だとすれば、イエスの弟子たちは、癒す力を授かれない自分たちの現実につまずいたことになります。
いずれにせよ、嘆く直弟子たちに対してイエスは、9章39節、
「イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい』」
と、偽の弟子集団の活動に対し、「イエスの名による活動」においては阻害しないようにと命じておられます。
しかも40節では、イエスはいつになく寛容で、
「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とさえおっしゃっています。
一つの出来事や物事と向き合う時には「3つの立場」が考えられます。
- 当事者
- 同伴者
- 傍観者
というように、物事との関係が見えてきます。
社会の現実から見れば、「逆らわない者」とは「傍観者」で
ありますが、「賛同する者」とも言えます。
40節では「イエスの名による活動」が前提となっていますので、ここでは「賛同者」的な立場として「逆らわない者は味方」とされています。
注意すべきは、弱い立場に置かれている人や、何かしらの被害者に寄り添おうとする人が、加害者に対して反対の声を上げず、沈黙しているならば、その人もまた加害者に加担する立場に立つことになる、ということです。
さらに、イエスは、「逆らわない者は味方」とのテーマを直弟子たちへの教えとして展開し、41節では、
「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と、これからイエスによって派遣されることになる弟子たちによる宣教に向けて励ましておられます。
つまり、「弟子たちよ、あなたがた自身もまた『イエスの名による活動』を担う者であるのだ」という勧めと、また、「あなたがたを『キリストの弟子だという理由で』もてなす者たちがいるのだ」という約束が告げられています。
そして、弟子たちをもてなす者たちは、もはや反対者ではなく、傍観者でもなく、弟子たちの活動への協力者であり、同労者であるとイエスご自身が認知し、神に受け入れられることの保証が語られています。
そこで本日は、週報冒頭に掲げました、9章42節の「つまずかせる」との御言葉に注目してまいります。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」
とあります。
ここで、マルコ福音書にはありませんが、同じ出来事についてのちに編集されたマタイとルカには、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」という補足の言葉が加えられています。
マタイ福音書18章6節以下では、
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」とされています。
ルカ福音書17章1節以下では、
「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。』」と、なっています。
このことから、著者マルコの手元にはなかったけれども、マタイとルカには共通する「イエスに関する資料」、おそらく「イエス語録」というものがあったのだろうと思われます。
「つまずき」あるいは「つまずく」という言葉を、本日読んでおりますマルコによる福音書から幾つか取り上げてみましょう。
4章16節、
「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」
6章3節、
「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。」
14章27節、
「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。』」
14章29節、
「するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言った。」
などが挙げられます。
このように、マルコによる福音書で用いられている「つまずく」という言葉を見ますと、3つの傾向に分類できます。
- イエスご自身につまずくこと
- 人につまずくこと
- 自分自身につまずくこと
とまとめられます。
また、これとは別に、マタイ11章6節とルカ7章23節に共通して書かれている御言葉として、
「わたしにつまずかない人は幸いである」
との御言葉もあります。
マタイとルカが、「イエスご自身」について、「わたしにつまずかない人は幸いである」と呼びかけつつも、実際には「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」という社会の現実について語っていることから、当時の教会の苦悩が感じられます。
42節以下では、「つまずかせること」が検証されています。
42節の、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」とは、誰のことであるのか?
実は、イエスの「弟子たちのこと」を指して、「わたしを信じるこれらの小さな者」と語られています。
このことは、キリスト者である「私という人間」が、「信仰的に未熟な誰かをつまずかせてしまったならば」という戒めとして語られている言葉ではなく、「あなたをつまずかせる者」がいるならばと、これは神の庇護の観点からの救済の言葉です。
43節と45節では、あなた自身の内にある何かが「あなたをつまずかせるなら」と振り返りを求めつつ、つまずかせるものとの決別を促し、「命にあずかる方がよい」ことの意義が繰り返されます。
47節は、これらのまとめとして、「神の国に入る方がよい」という「救いの奥義」を示されます。
48節では、唐突と思う以外にはない「地獄」という言葉が発せられます。
一般的に「天国と地獄」というように、一対をなす言葉として用いられていますが、聖書的には天国の反対の様子を表す言葉が地獄ということではありません。
47節で「神の国」について語られたから、48節で「地獄」についても語られているわけではありません。
「地獄」と訳されている、ヘブライ語の「ゲ・ヘンナ」という言葉は、元来、エルサレムの南にある谷間の呼び名として使われていたものであると言われます。
そこでは偶像に対して犠牲が捧げられていたことに対し、預言者によって神の審判が宣告されました。
このような経緯で、最後の審判が行われる場所とされ、ついには罪の宣告を受けた人々が罰を受ける場所を意味するに至ったと伝えられます。
大切なことは、命に与ること、そして神の国に入ることは、ただ神の御心による以外にはないことを知るべきでありましょう。
「つまずきは避けられない」という御言葉をもって、マタイとルカは、イエスにつまずくこと、人につまずくこと、人をつまずかせること、自分自身につまずくという人間の弱さを、すでに受け入れている・肯定しているように受け取れます。
しかし、マルコは、そのような弁解は一切書いてはいません。
弟子の現実、教会の現実に対し、にもかかわらず、神が護り、助け手を備えてくださることを一心に伝えます。
この姿勢が、マルコらしさであり、社会の中に置かれた教会の現実を見据えつつも、なお「神が宣教する」(神が宣教を司られる)という出来事に対して鮮やかに希望を見出していた、と言えるでしょう。
そして、この「神が宣教する」という希望こそ、今の教会が見失ってはならないビジョンであると痛感します。
このように本日は「つまずき」について見てまいりましたが、この説教を通してお伝えしたいメッセージがありました。
私たちは、あらゆるものに対してつまずく機会を持っている者であり、それを避けることは出来ません。
私たち人間は、自分自身にさえ、がっかりして、つまずくのですから。
しかし、神ご自身とキリストは、私たち人間につまずかれたことはない、と聖書は証言します。
そして、このことは、これからも変わることはないと。
この神の約束に、キリスト者は信頼するのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
次週の説教題は「天使の日」です。