2024.10.13説教「あなたが宝」

聖霊降臨後第21主日

「あなたが宝」

 

マルコ10章17-31

◆金持ちの男

 10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

 10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

 10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

 10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

 10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

 10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。

 10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

 10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」


 「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日はマルコによる福音書10章21節の御言葉から聴いてまいります。

《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」》

とイエスは語られております。

現在の礼拝で朗読される聖書は「新共同訳聖書」を使っておりますが、以前は「口語訳聖書」と呼ばれる聖書を使っていました。

ですから、今日の御言葉も「天に宝をたくわえなさい」と覚えておられる方々も多いのではないでしょうか。

そういう私も、その一人です。それゆえ、説教題も「富」ではなく、「宝」とクラシックにしております。

 

聖書が「富」という言葉を用いているところは、それほど多くはありません。

むしろ、少ないと言えます。

特にマルコによる福音書では、本日の箇所以外には一箇所しかありません。

他の一箇所とは4章19節、「種蒔く人のたとえ」で、茨の中に蒔かれた種のところです。

《この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。》

と、富についてわずかに触れられています。

 

「富」という言葉は、新約聖書では18回用いられており、上記以外では、ルカとマタイが二分して用いています。

マルコを初め、マタイとルカにも書かれており、それぞれの個性がよく表れている編集が施され、興味深いメッセージとなっています。

ヨハネによる福音書においては、富については一言も触れられてはおりません。

これもまた、ヨハネの個性であるかと思います。

 

 初めに、聖書における「富」という用語の扱いについて、ルカによる福音書からご紹介させていただきます。

1章53節、

《飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます》

と、「マリアの讃歌」の中に含まれています。

6章24節、

《しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。》

と、マタイの「山上の説教」に対する、ルカの「平地の説教」の中で用いられています。

12章21節、

《自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」》

と、「愚かな金持ちのたとえ」を通して忠告します。

16章11節、

《だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。》

と、「不正な管理人のたとえ」で富について語られています。

いずれもマルコには含まれない、ルカにおける「富」という用語の取り扱い方であり、見事な編集成果を生み出しています。

 そこで、本日与えられましたマルコ福音書からの御言葉を見てまいりましょう。

マルコ10章17節、

《イエスが旅に出ようとされると》

と始まります。

まさに今、イエスが次の町へと旅立たれようとする、その時!

「ある人」が現れます。

福音書は、イエスと出会えた場合には、しばしばその人の素性や名前を書き残しておりますが、ここでは「ある人」とだけ記録され、これから期待されるところのイエスとの出会いはなく、イエスとは「すれ違い」であろうことを予測させます。

旅立ちを急がれるイエスを呼び止めてまでも、「ある人」が聴きたかったことは、

《永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか》

という問いでありました。

 

「何をすればよいか」

これが「ある人」の関心のすべてでありました。

 その通り、「ある人」は、急ぐイエスのところへ、

「走り寄って」

「ひざまずいて」

「善い先生」と最上級の名で呼びかけ、

「尋ねて」(問いかけて)います。

何と騒々しい、何と忙しい、「ある人」であることでしょう。

「永遠の命を受け継ぐ」ことは、それほど切羽詰まった問題なのでしょうか?

そうです、「受け継ぐ」ために「急いで」いたのです。

「すること」(自分で行うこと)に捕らわれ、「すること」を追い求めている「ある人」には、イエスもまた「すること」をもって答えておられます。

10章19節、

《「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」》

「ある人」は応答します。

10章20節

《すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。」》

「ある人」は「守ってきました」と答えたのです。

 そうならばと、(まだ言うか!とばかりに)イエスはさらに、「すべきこと」で答えます。

それが今日注目している御言葉です。

10章21節、

《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」》

 それは、「売り払い」「施し」「従いなさい」という、イエスからの求めでありました。

これは、強情な「ある人」に対する当てつけや嫌がらせではありません。

なぜならば、イエスは「ある人」を「見つめ」、「慈しんで」「従いなさい」と呼びかけておられます。

そして、これが「天に富を積む」方法でありました。

しかしながら、ここにきて「ある人」は、イエスと避けがたくすれ違うことになるのです。

10章22節、

《その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである》

「ある人」は、

「気を落とし」

「悲しみ」

「立ち去」ることになります。

「持っていた」からです。

 すべては「ある人」の「すること」において終始したのです。

(「すること」に捕らわれ、「すること」を追い求める人には、イエスもまた「すること」をもって向かい合われています。)

 イエスは、この出来事を通して弟子たちに教えます。

10章23節、

《イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」》

「入るのは、難しい」

そうなのです!

「神の国」は訪れるもの、訪れたものだからです。

「神の国は近づいた」ことが福音なのです。

 

しかしながら、弟子たちはつぶやき始めます。

10章26節、

《弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った》

 そして、ついにペトロが口走ってしまった。

10章28節、

《ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。》

10章29節、

《イエスは言われた。「はっきり言っておく》

と。

そして、29-30節で、「捨てた者は、受ける」という神の秘儀が教えられます。

(自分が「すること」「すべきこと」「できること」に夢中であると、神より「受けたもの」には気づけなくなるものです。「ある人」は、神より受けたものへの感謝を見失っていました。)

 さて、本日のマルコ福音書10章21節を読み解く上で、マタイ福音書6章19節以下が、参考になります。

《「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」》

 ここでは、「あなたがたは地上に富を積んではならない」と、はっきりと呼びかけられています。

それゆえ、「天に富を積みなさい」というわけです。

マルコ福音書の「ある人」は、イエスのことを「善い先生」と呼んでいました。イエスは「善」とは「神」のことだと教えます。

「天に富を積む」とは、「売り払い」「施し」「従いなさい」という「善」を行うことでした。

すなわち、人間が「すべきこと」を追い求めることは、善という神の心を行うことでありました。

では、私たちが善を行い、神の心を表わすことが天に富を積むのであるならば、

つまり、私による善なるものを天に積むならば、

残る私自身というものは何でありましょうか?

罪が残るばかりであります。

この意味では、私たちの善によって「天に富を積む」だけでは救いに至ることはできません。

 

そこで最後に、「富」とは何かを考えます。

マタイ6章21節では、もう一点、述べられています。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」

と。

 私たちが「したこと」と「すること」のほぼすべては、地上の富に過ぎません。

わずかに神の心が表れた時に、善が見え隠れする程度です。

だからこそ、私たちの心が地上につながれて終わることのないように、地上の富ではなく、天の富を求めよというのです。

 

聖書の結論から言えば、

そのような、私たちにとっての富は何かではなくて、

神にとっての富は何かでありますし、

神にとっての富とは人間そのものであります。

 あなたが宝、あなたが神の富なのです。

 すでに神は旧約聖書の時代から人間に呼びかけておられます。

 イザヤ書43章4節で、神は

《わたしの目にあなたは価高く、貴い》

と告知されています。

 これは、マタイ福音書の「あなたの富のあるところに」という言い方を借りれば、「神の富があるところに、神の心もあるのだ」と聴き取れます。

 そして、私たちが天に富を積むまでもなく、神が私たちを富とされることこそ、天の富すなわち神の富とされることであり、これによって神が私たちを引き受けるという救いが果たされるのでありましょう。

神の富とされることが永遠の命に「入れられる」ことであり、「受ける」ということであるのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」


次週の説教題は「痛む神」です。