2024.10.20説教「痛む神」

聖霊降臨後第22主日

「痛む神」

 

イザヤ53章3-12

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

 53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

 53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

 53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。

 53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

 53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。

 53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日は旧約聖書の日課から聴いてまいりましょう。

与えられました御言葉は、イザヤ書53章3-12節です。

ここを取り上げました理由は、言うまでもなく「苦難の僕」についての預言の箇所であるからです。

ここでイザヤは「神は痛む」ということを伝えます。

これはキリスト以後の人類にとって、まさに「キリストの受難」とその意義が語られています。

この53章の御言葉がユダヤの民衆に告知されていなかったならば、誰もイエスがキリストであること・救い主であること、神からの「約束の人」であるとは知り得なかったことでありましょう。

この預言がなければ、キリスト教は生まれなかったと言っても過言ではありません。

旧新約聖書における最も重要な御言葉であります。

 

イザヤ書について、イザヤという一人の預言者がいたということではありません。

イザヤ書の歴史的背景を見ていきますと、南北に分断されていたイスラエルの時代に始まり、北の敗戦と消滅、南の滅亡とバビロン捕囚、ペルシアによる解放と南地域のユダヤ復興などが記録されており、200年間にわたる歴史であることが分かります。

ですから、3つの時代、大きく3世代におよぶイザヤ教団の福音的預言というわけです。

また、イザヤ書は「平和の書簡」であると言えます。

2章4節の、

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」

の御言葉は、特に印象深いメッセージです。

 こうして2章の「人と人の間から争いを絶つ呼びかけ」に始まり、本日の53章5節に至っては、

「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

と、「彼」と呼ばれる「苦難の僕」によって、神と人間との間に「まことの平和」がもたらされるとの預言に至ります。

 

 53章6節を見ますと、

「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」

と、「わたしたち」として描かれるユダヤの民が「羊の群れ」として例えられています。

 羊飼いは羊の群れを養い護る牧者であります。

その羊飼いは、養う群れに羊が何頭いようとも、すべての個体を見分けるそうですが、1頭1頭の個体の違いは傷で分かると言います。

 同じ羊は二つといないそれぞれの欠けや傷が、その個体の特徴であり、名前の代わりとなるのでしょう。

 ここ53章では、主と言い表される神が羊飼い役であり、「苦難の僕」もまた一匹の羊として数えられていますが、キリスト以後に生きる私たちにとってはキリストが羊飼いとなります。

 そうすると、53章3節の御言葉が、深く身に沁みてまいります。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。」

 受難を通して、キリストは、私たちの痛みを負い、病を知る方となられました。

 神は人間の何を見ておられるのか、どこを見ておられるかと聴けば、私たちの病を知っているお方として人間と向き合っておられます。

 羊飼いが羊それぞれの欠けや傷で見分けるように、キリストは私たちの痛みと病で、私たちそれぞれの存在を覚えてくださっているということです。

 このことは、キリスト者にとって幸いなことでした。

それは、それぞれの「頑張り」で神の前に立つということではなく、もはや立ち上がることが出来なくても、また一歩も踏み出すことが出来なくとも、否、そうであるがゆえに、私たちを見分けることがお出来になるキリストがおられるのです。

 キリストの受難というものを、後の世の人間は、どのように言い逃れても「人の罪による仕業」であると見てしまうものです。

 ところが、この53章は、そのようには語りません。

 53章4節、

「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」

と、罪の自覚などない民の姿が書き止められます。

 それゆえに、そのための重荷を負われたというのです。

 

 イザヤは「神の意思」を矢継ぎ早に語ります。

6節、

「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」

8節、

「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」

10節、

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。」

 これらの御言葉には、はっきりと神の意思が告げられています。すべては神が欲し、神自らが行われたことでありました。

 また、苦難の僕としての彼自身の意思も伝えられています。

10節、

「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。」

御言葉の通り、彼は「償いの献げ物」となられました。

11節、

「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」

ここには、自ら苦難を負うという使命以上に、驚くべきことには「満足」という苦難の僕としての充足までもが描かれています。

12節、

「彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」

 このように、神の意思に呼応するように、苦難の僕は自ら主体的に神の意思に応えています。

神の意思を生きた苦難の僕であったと言うべきでありましょう。

 12節が、「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」と、「この人であった」という苦難の僕こそ「約束の人であった」と指し示して綴じていることも印象的であります。

 この言葉は、キリストの十字架での受難に際し、ルカによる福音書が伝える言葉を思い出させます。

ルカ23章46節以下、

「イエスは大声で叫ばれた。父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、本当に、この人は正しい人だったと言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」

 ローマ軍の百人隊長でさえ感極まるこの一言は、キリスト者を大いに慰める言葉であります。

 イザヤ53章9節、

「彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。」

 イエスは苦難の僕として、神から民への約束の人として、神の言葉である預言者の言葉通りに、民の前で生きて見せられました。

 その御言葉の通り、イエスの人間としての死は、神に逆らう者と共にされ、富める者のように墓に葬られました。

 8節では、苦難の僕の死を「命ある者の地から断たれた」と表現しています。

「命ある者の地」とは現世のことであり、また与えられた人生でもあります。

この表現は詩編においても用いられています。

 詩編27編13節、

「わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」

 この詩にしたためられている、「世に生きて主の恵みを見る」という力強さに圧倒されます。

 これは、死にゆくためにキリストを信じるということではなく、生きるためにキリストを信じること、キリストに生かされる人生を求めよと、強く迫る言葉であります。

そのことの延長線上にあることとして、「永遠の命」というキリストの約束が捉えられるように思います。

 

 イザヤ書におけるキリストに関わる預言は、

7章14節の、

「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」

や、9章5節の、

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

に始まり、53章の苦難の僕で終わるものではありません。

 福音の原点の書として、すべてがここには収められています。

 55章からのイザヤ第3世代は語ります。

55章1節、

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」

この言葉は、ヨハネ福音書7章37節、

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

と同じです。

59章20節、

「主は贖う者として、シオンに来られる。」

63章8節、

「そして主は彼らの救い主となられた。」

これらは、キリストが贖う者、救い主であることの告知。

救いが来るとの福音です。

63章19節、

「どうか、天を裂いて降ってください。」

これは、主の洗礼の場面での聖霊のほとばしり。

66章15節、

「主は火と共に来られる。」

これは、聖霊降臨。

66章19節、

「わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。」

これは、地の果てに至るまでの弟子たちの派遣。

66章22節、

「わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。」

これは黙示録21章1節の言葉と同じです。

  このように、イザヤ書はかつての聖書信仰を豊かにし、より具体的に示しました。

イザヤ書には、私たち教会の信仰を豊かに、確かに、具体的にする御言葉の力があります。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」


次週の説教題は「神のプライド」です。