2024.10.27説教「神のプライド」
宗教改革主日
「神のプライド」
ローマ3章19-28
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
◆信仰による義
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は「宗教改革日」。
1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルグで、マルチン・ルターによって始まった宗教改革運動と、プロテスタント教会の誕生を記念しています。
ルターはローマ・カトリック教会の修道士でありましたが、贖宥状(俗にいう免罪符)の効力について公に問題提議を行いました。
この出来事をきっかけとして、ヨーロッパ各地に宗教改革運動が広がります。
こうして、新教と呼ばれるプロテスタント教会(改革される教会)としてのルーテル教会が生まれました。
すなわち、宗教改革日はルーテル教会の誕生日でもあります。
ルターがヴィッテンベルグの教会の扉に95ヶ条におよぶ問題提議を張り出したのは10月31日でありました。
どうして、その日なのでしょうか?
翌日の11月1日は「全聖徒の日」であったからです。
全聖徒の日は召天者を記念する日であり、一年で最も教会を訪れる人口が多いであろう日であり、事実多くの人々がルターによる問題提議に触れ、共感を生んだことから宗教改革運動へと発展したのです。
(全聖徒の日のイブには「ハローウィーン」の祭がありますが、これもまた翌日の「全聖徒の日」に聖人たちが記念されることに対抗して起こった世俗的な祭りと言えるでしょう。)
本日は、与えられました「6つ」の聖書箇所から、ローマの信徒への手紙3章19-28節を選び、聴いてまいります。
ローマの信徒への手紙は、伝道者パウロが、これから行くことになるローマにおいて、すでに散在するキリスト者の小さな群れに向けて書いた手紙です。
まず3章27節を見ますと、「では、人の誇りはどこにあるのか」とパウロは問うています。
「人の誇り」は、プライド、自負心と言うこともできます。
キリスト者(クリスチャン)は、キリスト者としての「誇り」を持っています。
それは、私利私欲に生きる者ではなく、感謝と奉仕をもって神と隣人に尽くしているという自負心です。
また私たちは、プロテスタント教会の源流であるルーテル教会に属する者としての誇りを持ってきました。
しかしながら、もはや一つの教会に対する帰属意識というものは、時代と共に希薄になりつつあるように思われます。
特に大都会においては、それぞれの教会の流れである教派というものは違っても、近隣には幾つもの教会が建っており、個人の自由な意思で行き来されている様子も知らされるところです。
戦後にはキリスト教ブームと言われる時期がありました。
多くの信徒が生み出され、多くの教会が建てられました。
その信仰の遺産で現在まで教会は支えられて来ました。
誠に感謝です。
今、将来を見据えて、課題多き教会を変えようとしているのではありません。
時代と共に教会は変わらねばならないのです。
27節の続きを読んでみましょう。
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」
ここに「人の誇りは取り除かれた」と語られています。
人間の誇り、プライド、自負心に代えて、何があるというのでしょうか?
本日の聖書箇所で、パウロはまず、「行いの法則」である「律法の法則」の効用について語り始めます。
3章19節を見ますと、
「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」
ここでは、律法の目指すところは、「全世界が神の裁きに服するようになるため」であると書かれています。
そして、続く20節で、
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」
と、「律法は罪を自覚させるだけのもの」と言い切っています。
次にパウロは、「律法の法則」によって罪を自覚した者に救いを与える「信仰の法則」について語ります。
最初に見ました27節で、パウロは「信仰の法則」によって、人の誇りは取り除かれたこと・もはや人間は行いを誇る必要がなくなったことを語ります。
28節の説明を見ますと、
「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」
とあります。
「義」とは「神の義しさ(正しさ)」です。
人間が神の前で義しいとされるのは、律法の要求に従う善を行ったからではなく、キリストによる福音を信じて受け入れることによるということです。
このことを「信仰によって義とされる」と言います。
これが、ルターが言うところの「信仰義認」という福音の再発見であり、宗教改革のテーマとされています。
こうして、「信仰によって義とされる」ことにより、「善を行う」という「人間の誇り」が、神の前で「義」とされる救いの出来事に入り込む余地はなくなったのです。
ここまで、「人の誇り、人のプライド」について、パウロの言葉から見てまいりました。
そこで、本日の説教題は「神のプライド」としております。
では、「神のプライド」とは何でしょうか?
21節には、
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」
とあります。
「神の義」という言葉に、神ご自身のプライドが示されます。
この「神の義」というものについて、22節は語ります。
「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
キリストによる福音を信じることによって与えられるものが、「神の義」であると言うのです。
さらにその内実が、24節で明かされています。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
ここでパウロは、「キリスト・イエス」という呼び名を使っています。
私たちは多くの場合、「イエス・キリスト」と呼びかけておりますが、何が違うのでしょう。
パウロは、どういう思いを込めているのでしょうか?
聖書における「イエス・キリスト」という呼び名は134回使用されています。
これに対し、「キリスト・イエス」という呼び名も、実に87回も登場します。
こちらの特徴は。まず福音書には使用されていないこと。
そして、パウロは両方の呼び名を使っていますが、好んで「キリスト・イエス」を使っていることです。
パウロは十字架以前の「人となられたイエス」(肉によるイエス)を知らず、復活されたキリストとの出会いによって伝道者とされた者です。
それゆえ、「キリスト・イエス」・「死と復活の主イエス」の呼び名こそ、好ましく思えたのでありましょう。
また、「贖いの業」という言葉からも神のプライドがうかがえます。
受難という災難ではなく、「業」とうい主体的行為です。
いよいよ、25節において神のプライドが現れます。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
神はキリストを私たちの世界にくださいました。
その血によって罪を拭うためです。
「今まで人が犯した罪を見逃して」とあります。
わたくしは、この御言葉に痛み入ります。
礼拝の讃美歌として選んでおります253番2節の歌詞にも謳われています。
「イエスきみのみ苦しみ 罪をあがないませば
み恵みも忘れ果て 祈り少なき身をも
見過ごして、ただ神の 民として受けたまえ」
見過ごして、また見逃してとは、無かったことにはなりませんが、そうであった者として引き受ける神には、感動しかありません。
これが「神の義」であると示されています。
最後に、26節、
「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
ここで、ついに神のプライドが開花しています。
「神は忍耐してこられた」
「忍耐」というものには「限り」があるということを、私たちは承知しています。
かの「ノアの箱舟と洪水」の出来事は、神の忍耐の限りでありました。
そこで神は「このようなことは二度としない」と後悔され、神のプライドを「裁き」から「受容」へと思い直されたのです。
そして「神の義」を掲げることにより、「御自分が正しい方であることを明らかに」されました。
これこそ、「神の義」です!
神が義しい方であることを示すことが、神のプライドであったのです。
人間の善い行いによってではなく、神ご自身が神の義しさによって人間に救いをもたらすことが、神のプライドでありました。
旧約聖書の預言者エゼキエルの言葉、エゼキエル書36章23節、
「わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。」
とあるように、神は民を救うことを通して、神ご自身で神の名を聖なるものとして取り返されたのです。
神のプライドは、神の威光を見せつけるものではありません。あなたを救うことが、神のプライドなのです。
それゆえ、あなたが神の希望となるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
次週の説教題は「イエスの涙」です。