2024.11.17説教「命の書」
聖霊降臨後第26主日
「命の書」
ダニエル12章1-3
12:1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。
12:2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
12:3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は、旧約聖書の日課であるダニエル書から聴いてまいります。テーマは「命の書」、キリスト教の死生観です。
旧約聖書では、はっきりと聖書の来世観や死生観を語っているところは多くはありません。
数少ない来世観の一つが、今日読んでおりますダニエル書12章3節です。
「目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」
ここを読みますと、信仰をもって亡くなった方々が星となって輝いているように受け取れます。
美しい、夢のある描き方がなされています。
もう一つ、印象的な箇所がエゼキエル書37章4節以下です。
《そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。》
まさに枯れた骨の復活が描かれていますが、骨に肉が付くだけではまだ生きているとは言えず、霊が吹き込むことによって、人が生きると告げられているのは、死者ばかりではありませんね。
私自身が旧約聖書の死生観で最も印象深く聴いております箇所は、ヨブ記19章25節以下の御言葉です。
「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。」です。
「わたしを贖う方は…塵の上に立たれる」。
「塵」とは「死というものの底」であろうと受け止めます。
「贖う方」すなわち、新約の時代に生きる私たちから見れば「キリスト」と言うことになりますが、「キリストは死の底に立たれる」という、このヨブの信仰告白の言葉に衝撃を受け、また感動を覚えます。
「死の底に立たれるキリストと共にキリスト者は復活する」という死生観がここに描かれています。
旧約聖書で代表される来世観・死生観を描く箇所は、以上のようなものであろうと思います。
教会の信仰告白である使徒信条の言葉では、
「そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。」
と書かれています。
これはどういうことでしょうか?
まず、キリストは生きている者と死んだ者との主である、と記されている箇所を幾つか見てまいります。
使徒言行録10章42節、
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」
ローマ書14章9節、
「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
Ⅱテモテ4章1節、
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。」
Ⅰペトロ4章5節、
「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」
このように、キリストは生きている者の主であるばかりでなく、死んだ者の主でもあることがわかります。
すでに死んでしまった者の立場では、死んだ者の主でもあるキリストに対して申し開きのしようもありません。
そこで、マルチン・ルターによる宗教改革運動の引き金となった「95ヶ条の提題」と言われる書物の中に、死とその後の世界についての興味深い論述があります。
13条:死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法規に対してはすでに死んだ者であり、それらの法からは当然解放されている。
14条:死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになろう。
15条:この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも充分に煉獄への罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきに最も近いからである。
17条:煉獄にある魂にとって、おののきが減ぜられるに応じて愛が増し加えられるのは、必然のように思われる。
18条:また、煉獄にある魂が、功績や増し加わる愛の状態の外におかれているということは、理性によっても聖書によっても証明されてはいない。
このように、ルターは死へのおそれとおののきによって、すでに罰は受けたのであると述べ、《何人も》恐れが減じ、愛が増し加えられる外におかれるなど、聖書によっても証明されないと語っています。
このことはルターによる慰めと救いのメッセージです。
このことをさらに深めようと、本日はダニエル書を読んでいます。
12章1節後半、
「しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。」
とあります。
使徒信条にある「そこから来て」という表現と、ダニエル書の「その時」とは、共に「最後の審判」と受け止めるのがふさわしいでしょう。
「その時」には、生きている者もすでに召された者も共に審判の座に立つことになる、というのが聖書の考えです。
ダニエル書では、救われる者の名前が記されているであろう「あの書」が登場します。
俗に言う「閻魔帳(えんまちょう)」のような印象です。
キリストの「覚書」というものです。
私たち人間の救いに関わる「あの書」、実の名を「命の書」と申します。
「あの書」と呼んでいるのは、ここダニエル書だけです。
ほかの箇所では「命の書」と言われています。
この「書」について、聖書から聴いてまいりましょう。
「命の書」についても、多くは書かれてはおりません。
いくつかご紹介しますと、
詩編69編29節
「命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べて/そこに書き記さないでください。」
フィリピ4章3節
「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」
黙示録3章5節
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。」
黙示録20章12節
「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
黙示録21章27節
「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」
このように見てまいりますと、命の書に名前が書かれている者は救われ、名前がない者は裁かれる、との印象です。
命の書とは、救われるべき命の名前が刻まれた書簡であるのです。キリストの救いのリストというものでありましょう。
さて、「命の書」は、どこにあるのか?ということになります。
イザヤ書には興味深い記述があります。49章14節以下、
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
神がわたしを忘れないことのしるしとして、神は神ご自身の手のひらに、わたしを、わたしの名を刻みつけるとおっしゃいます。
神ご自身の手のひらにわたしが刻まれるとは、わたしにとってキリストの手のひらの十字架の釘跡にほかならない。
救われる約束、救いのしるしであるところの、わたしの名前が刻まれた「あの書」、「命の書」とは、キリストの御手である以外にはありません。
キリスト者にとっての「命の書」とは、釘で打ち抜かれた十字架の傷跡があるキリストの手のひらであったのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
次週の説教題は「千年一夜」です。