2024.11.24説教「千年一夜」

聖霊降臨後最終主日

「千年一夜」

 

黙示録1章4-18

1:4 -5 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

1:6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日は、与えられました聖書日課の黙示録より説教致します。

説教題と致しました「千年一夜」という言葉は、詩編90編4節の「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」から取ったものです。

黙示録と言えば、1章8節をはじめとして「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言う表現が5回も見られ、最後の審判という描写で知られる再臨のキリストについて語られています。

「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、この言い表し方を通して、「神の時」とは何か、「神のみ旨、神の御業が顕れる時」について考えること、知らされることが目的です。

 

黙示録は、新約聖書の終わりに収められておりますし、旧約聖書も含めると壮大な全66巻のまとめともなってきますから、自然と重たい印象を持ってしまいます。

そこで、もう少し親しみやすい書簡となるよう、ご紹介してまいります。

聖書の初めの書簡は、言うまでもなく創世記・天地創造物語です。

そこでは「木を植える話」から始まります。

そして、聖書の終わりの書簡が黙示録でありますが、ここもまた、22章「木を植える話」で終わるのです。

黙示録には世界の終わりが書かれていると思われています。

確かにそうです。

しかし、同時にそれは、新しい世界の始まりでもあります。

それゆえ、再び「木を植える話」が語られます。

しかも、創世記でエデンの園の中央に植えられた2本の木、それは「善悪を知る木と命の木」でありましたが、アダムたちが食べた禁断の木の実は「善悪を知る木」であり、神が断固たる態度で護り通したのは「命の木」でありました。

にもかかわらず、黙示録では、この命の木が並木として植えられ、しかも人間に開放されていくのです。

これは大変興味深く、また親しみやすい福音ではないでしょうか。

 

まず、黙示録が書かれた目的についてですが、執筆年代は西暦90年代半ばであろうと考えられます。

かつて、イエスがお生まれになる頃の初代ローマ皇帝・アウグストスに対しては、誰も何も言わなくても、皇帝は崇拝される存在でした。

しかし、ローマも100年を迎えようとする頃には帝国への期待も皇帝への尊敬も薄れていたようで、90年代には皇帝礼拝を法で定めなければならない事態に至りました。

この法に抵触するのが、皇帝以外の神を礼拝するキリスト者たちであり、ローマによるキリスト教への迫害が激化していくこととなります。

このような時代に、信仰を理由に投獄され、処刑されていくキリスト者たちへの励ましとして書かれたのが黙示録でありました。

また、黙示録が最後にかかれた書簡であると思われがちですが、実は黙示録よりも後に、このキリスト教迫害の一部始終を知った上で西暦100年を過ぎて書かれたのが、ヨハネによる福音書なのです。

他の福音書は迫害の前時代に書かれたので牧歌的なムードもありますが、ヨハネ福音書が辛辣で、信じることに一刻の猶予も与えないのは、今日で人生が中断されるかもしれないという迫害をくぐり抜けた信仰者たちの緊張感と確信に裏付けられた福音であるからです。

 

さて、本題に入ってまいりますが、確かに黙示録には「最後の審判」と言われる時が定められています。

それぞれの人生について、どのように審判されるのかについて、マタイ福音書がわかりやすい例え話を紹介しています。

マタイ25章31節以下の箇所です。

25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

 25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、

 25:33 羊を右に、山羊を左に置く。

 25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

 25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

 25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

 25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

 25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

 25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

 25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、

 25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

 25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

 25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

 25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 

最後の審判と言えども、何も怖れることはありません。

なぜならば、最後の審判に立たれるお方は、「やがて来るべき方」でありますが、同時に、かつておられた方であり、今おられる方であり、他ならぬ私たち自身を救ってくださったキリストであるのですから。》

 

 気になるのは、この「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という表現です。

「かつて」と「今」と「やがて」を併せ持つとはどういうことなのか。

また、21章6節、

「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」と。

これらがどのように一つになるのかを問い続けてまいりましたが、その理解のヒントとなったのが、最初に述べました詩編90編4節の「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」の御言葉だったのです。

 

 新約聖書が書かれたギリシャ語では、時間に対する二つの考えがあります。それは、クロノスとカイロスです。

私たち人間は、かつてから今に至り、今からやがてへと向かう時間の流れの中で生きています。

これに対し、神の御業は、神ご自身が「これ」と欲される時に顕されます。

私たちの目から見れば、連続ではない、その時、その時としてうつります。

 しかし、詩編の、かの詩人の語りかけは、実際には人間の歴史など神のまばたきほどのものではありはしないかと迫るものがあります。

つまり、私たちのささやかな考えでは思いもつかぬ、カイロスなる「神の時の幅」があるのではないかと。

 あの時、この時に、神はささやかに働いておられるにあらず、アルファでありオメガ、初めであり終わり、私たちにとっての「かつてと今とやがて」が同時に含まれるほどの幅をもって、ドーーン!と私たちの世界に訪れておられる方こそ、私たちの主ではなかったかと知らされます。

 クロノスと言う人間の時間、これに対するカイロスと言う神の心が現れる時、違いは長さではなく、神が人間の歴史に触れてくださったかどうかにかかっており、たとえ一夜であろうとも神が触れてくださった歴史と世界には意味が与えられたのです。

このことは、キリストがただ一度、十字架にお架かりになられた出来事と等しいのです。

ゆえに尊いのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださいます。」


次週の説教題は「希望のもと」です。