2024.12.22説教「マリアのクリスマス」
主の降誕
「マリアのクリスマス」
ルカ1章26-45
◆イエスの誕生が予告される
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
◆マリア、エリサベトを訪ねる
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
「クリスマス、おめでとうございます」
「クリスマス、おめでとう」は、教会での伝統的なクリスマス・シーズンの「挨拶」となっています。
なぜ、クリスマスは「おめでとう」なのでしょうか?
それは「おめでとう」という言葉からクリスマスの出来事が始まったからであると私は受け止めています。
ルカによる福音書1章28節の言葉、
「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」
とあります。
その通り、クリスマスと呼ばれる「神の御子の誕生」の出来事は、天使からマリアへの「おめでとう」という言葉から始まったのです。
マリアに現れた天使は、続けて語ります。1章36節、
「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
と、エリサベトへも受胎告知をしたことを伝えています。
そこで、マリアはエリサベトのところへと出かけて行くのです。
40節、
「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」
とあります。
まず、マリアはエリサベトへと「挨拶」を述べます。
何と挨拶したかは書かれておりません。
どんな言葉を想像されますか?
現在でも使われていますが、ユダヤの伝統的な挨拶の言葉は「シャローム」です。
互いに「神よりの平安」、すなわち「神との平和」と「互いの平和」を祈るのです。
朝も昼も夜も寝る前も「シャローム」と挨拶を交わします。
天使によってマリアは、子どもを授からなかったエリサベトに「子が授けられた」との知らせを聞いたのです。
そのようないきさつで出かけて行ったのですから、マリアからの挨拶は、当然、「おめでとう」であったことと思われます。
また、マリア自身に起こった出来事もエリサベトには伝えられたことでしょう。
それゆえ、41節では、
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」
とあり、44節でも再び、
「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」
とあります。
エリサベトの胎には「洗礼者ヨハネ」となる命、マリアの胎には「御子イエス」が宿っていました。
二つの命は世に生まれ出る前から呼応し合っていたと伝えられます。
洗礼者ヨハネと御子イエスの関係。
洗礼者ヨハネには自らの使命から御子の降誕は当然のことであり、洗礼者ヨハネが待っていたことは、「御子の降誕」ではなく、「キリスト・救い主の誕生」であったと言えます。
今度は、エリサベトからマリアに挨拶が述べられます。
42節、
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」
という祝福の言葉です。
「祝福」とは、まさに「おめでとう」そのものでありましょう。
また、45節、
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
とも述べています。
エリサベトはマリアに、「おめでとう」と祝福の言葉を述べたのです。
祝福とは、あなたによって周囲に歓びが起こること、神と天使たちの間に歓びがあることの告知でもあるのです。
通常、「おめでとう」という挨拶には、「ありがとう」との言葉で応答すべきものでありましょう。
エリサベトからの「おめでとう」という挨拶を、マリアはどのように受け止めていたでしょうか。
28節での天使の「おめでとう」という言葉を聴いたマリアは、29節で、
「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」
とあります。
マリアは天使による突然の告知に対し思い悩んでいます。
これ以後、そして生涯にわたっても、マリアから「ありがとう」という気持ちを福音書において聴く機会はありません。
38節には、
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」
とあり、マリアは自分の身にこれから起こるであろう予測できない出来事に対して、独りで苦悩し、しかし、覚悟と共に天使の「恐れることはない」という言葉に立つことによって自分の身に起こる人生を引き受けています。
マリアは、ダビデ家のヨセフという人のいいなづけでもありましたから、ヨセフもまた、マリアに起こった出来事に独りで苦悩し、ひとたびは離縁を決意するものの、天使が思い留まらせます。
こうして、今度は二人で苦悩を負い合うわけですが、のちにヨセフとマリアは、臨月を迎える頃、人口登録のためにヨセフの故郷・ベツレヘムへと向かいます。
しかし、故郷で彼らを迎える親族は描かれてはおらず、家畜小屋での出産となるのです。
マリアは、エリサベトからの「おめでとう、幸せだね」という祝福に対して、46節から始まる「マリアの讃歌」と呼ばれる言葉をもって応答しています。
この「マリアの讃歌」については次週の御言葉から聴くことになります。
では、御子を授かることによってマリアに始まる苦悩の意味は何でありましょうか?
御子を授かることによって、マリアは苦しむのです。しかし、マリアの場合は御子が共におられます。
苦しみを取り除くという仕方ではなく、苦しみそのものの中へ御子はお生まれになるのです。
このことは、キリストが十字架の死と復活によって、死というものと向き合いつつも死の力を退けられたこと、つまり、命は死で終わるものではないことを告げられたことと似ています。
御子は貧しさ、苦しさ、困難のただ中にお生まれになることにより、それらの質と意味を転換されるのです。
困難の中に御子がお生まれになること、貧しい状況や苦しむ人々に神が目を留め、そこに来られることで、もはや苦しみは単なる苦しみではなく、神が共におられるしるしとなり、希望の始まるところに変えられるのです。
苦しみが深いほどに生まれて来る命は輝き、闇が濃いほどに神が共におられる希望は輝くのです。
また、言うまでもなく、クリスマスの主役はマリアではなく、御子ご自身であります。
マリアの苦難の中に御子が来られたと言うよりも、イザヤ書53章で告げられていた「苦難の僕」としての御子の誕生と、人としての神の子の人生に、マリアは神によって伴われたというべきでありましょう。
招待されたというには余りにも過酷なマリアの人生でありますが、マリアは御子の人生に同伴する者とされたのです。
それは、御子イエスの受胎告知から十字架の死に至るまで、さらに、復活して昇天されるのを見届ける証言者とされたのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
本日の礼拝の後には、ささやかなクリスマス祝会が行われました。
クリスマスに洗礼を受けた方のスピーチ、ミニゲーム、有志による楽器演奏、といった催しが行われました。
また、12/24(火)には、クリスマスイブ礼拝が行われました。
厳かな雰囲気のなか、クリスマスイブのひとときを過ごしました。
次週の説教題は「千年の祈り」です。