2024.12.29説教「千年の祈り」
降誕節第1主日
「千年の祈り」
◆マリアの賛歌
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
サムエル上2章1-11
◆ハンナの祈り
2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。
2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。
2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。
2:4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。
2:5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。
2:6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。
2:8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。
2:9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。
2:10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」
2:11 エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
マリアは、エリサベトからの「おめでとう」という祝福に対して、46節から始まる「マリアの賛歌」と呼ばれる言葉をもって応答します。
「マリアの賛歌」はあまりにも有名で、数多くの芸術作品のテーマとなっています。
その賛歌の最後、55節は、
「わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
との言葉で綴じられています。
「わたしたちの先祖におっしゃったとおり」
とマリアが語っているように、「マリアの賛歌」はマリア自身の中から溢れ出た言葉というよりも、悠久の時を経て語り継がれて来た「神との約束」であり、「神賛美」であり、神の民としての「祈り」の「伝承」でありました。
「マリアの賛歌」の原点は、旧約聖書のサムエル記上2章1節以下に納められている「ハンナの祈り」にあります。
ハンナは子どもを授からないことにより、夫エルカナのもう一人の妻に、思い悩ませられ、苦しめられておりました。
ある年の神殿への巡礼の際、ハンナは誓願を立てます。
「子をお授けくださいますなら、その子を捧げます」と。
神はハンナの願いを聞かれ、ハンナは子を授かりました。
そして、乳離れした時、満願の捧げものとして授かった子を祭司エリに預けたのです。
この子がサムエル。のちにダビデ王を任命する祭司となるのです。
特に、マリアの賛歌のルカ1章51節以下と、ハンナの祈りのサムエル上2章7節以下が、等しく重なり、共鳴し合っています。
それは、しいたげられた貧しい者への福音でありました。
読み比べると分かりますが、まず共通の基本的メッセージは、サムエル上2章7節の、
「主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる」
です。
続くハンナの祈りは、2章8節、
「弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる」
となっています。
これに対し、マリアの賛歌・ルカ1章52-53節では、
「権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」
となっています。
このように、単に「ハンナの祈り」と「マリアの賛歌」が似ているということではなく、まさに「ハンナの祈り」に則って「マリアの賛歌」が神への賛美として歌われているのです。
聖書は歴史的に読むと、さらに興味深くなるものです。
旧約聖書だけでも2000年の歴史が語られています。
この「ハンナの祈り」と「マリアの賛歌」には、実に1000年という時の隔たりがあります。
「マリアの賛歌」のモデルが「ハンナの祈り」であるということは、この1000年の間、「ハンナの祈り」が多くの女性たちによって祈り続けられて来たことの証しでもあります。
しいたげられている者のうめきとして発せられた「ハンナの祈り」、この祈りに裏付けられた「マリアの賛歌」、このマリアの時代から2000年を経た現代でも、マリアの賛歌は音楽の分野も含めて愛されている歌です。
ハンナが捧げてから3000年の時を越えた祈りは、今も苦しむ者の希望となっているでしょうか。
マリアは祈ります、ルカ1章48節、
「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」
ここで「主のはしため」と訳されている言葉は、現代においては、よりふさわしい言葉がないものかと思案しています。
「はしため」よりは、「貧しい者」、「取るに足らない者」とするべきであろうと思います。
なぜマリアが「はしため」と呼ばれるのでしょうか。
かつてハンナは、子を授からないことによってしいたげられました。
神の祝福から漏れた者とされたのです。
それゆえ、主に誓願し、その満願として授かった子を祭司として捧げたのでした。
他方、マリアは、未婚の身でありながら「神の子」を授かったことによって、より「はしため」と呼ばれる立場とされました。
まさに「主のはしため」の務めを引き受けることとなったのです。
この点では、ハンナとマリアは真逆の立場ではありましたが、それぞれの祈りにあるように、
「主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる」
という、主への信頼においては等しい者でありました。
共に神が目を留められ、等しく「祝福」されています。
マリアは続けます、
「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と。
しかし、ルカ福音書によれば、母とされたマリアにとって、一言で「幸い」と呼べるような平坦な日々ではありませんでした。
ハンナの生きた時代は紀元前1000年、まだイスラエルが12部族の連合体であり、国として束ねられる直前の時代でした。
マリアが立つ時代は西暦0年、イザヤが「約束の神の御子誕生」を預言してから700年後の時代でありました。
つまり、「マリアの賛歌」には、ハンナが捧げた祈りを原点とする「貧しい者への福音」が息づいており、時を越え、貧しい者たちによって祈り継がれて来た祈りであり、「千年の祈り」というべきものであるのです。
千年の悲しみ、千年の叫び、そして、絶え間なく祈られて来た「千年の希望」がここにあります。
彼らのそれぞれの人生を通して、預言者イザヤが告げた「谷が身を起こす」ことの見える姿である彼らを通して、しいたげて来た者たちが恥じ入り、身を低める世界を私たちは知らされるのです。
確かに、神はハンナの願いを聞き入れられました。
命の誕生がその祝福のしるしです。
神はハンナの苦悩と涙を拭い去られました。
これは、キリスト以前、旧約聖書における福音です。
では、御子を授かることによってマリアに始まる苦悩の意味は何でありましょうか?
御子を授かることによって、マリアは苦しむのです。
しかし、マリアの場合は御子が共におられます。
苦しみを取り除くという仕方ではなく、苦しみそのものの中へ御子はお生まれになるのです。
苦しみが深いほどに生まれて来る命は輝き、闇が濃いほどに神が共におられる希望は輝くのです。
祈りは起こされ、祈りは受け継がれ、闇の中にも祈りの希望が失せることはありませんでした。
ハンナが捧げた祈り、それを受け継ぐ「マリアの賛歌」という「千年の祈り」は、このことを、時を越えて告げるのです。
また、言うまでもありませんが、クリスマスの主役はマリアではなく、御子ご自身であります。
マリアの苦難の中に御子が来られたと言うよりも、イザヤ書53章で告げられていた「苦難の僕」としての御子の誕生と、人としての神の子の人生に、マリアは神によって伴われたというべきでありましょう。
招待されたというには余りにも過酷な人生でありますが、マリアは御子の人生に同伴する者とされたのです。
それは、御子イエスの受胎告知から十字架の死に至るまで、さらに、復活して昇天されるのを見届ける証言者とされたのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
2025年1月1日(水)には、元旦礼拝が開催されます。