2025.2.9説教「ネットワーク」
顕現後第5主日
「ネットワーク」
ルカ5章1-11
◆漁師を弟子にする
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
先週の教会総会を終え、新たな一年の始まりにふさわしく御言葉を聴いてまいりましょう。
与えられた御言葉は、ルカによる福音書の5章1節から11まで。
イエスが初めての弟子を召される場面です。
場所はゲネサレト湖畔。
馴染みのない地名のように聞こえますが、ここは別名ガリラヤ湖。
この湖のほとりでの出来事です。
1節、「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」
と始まります。
群衆はイエスのところへ、「神の言葉を聞こうとして」押し寄せたのです。
すでに4章14節にありましたように、「評判は周りの地方一帯に広まって」いました。
その評判とは、力強い説教、見たこともない癒しの業でありましょう。
群衆は神の言葉を求めていました。
イエスという人物に期待していました。
そのことが、イエスのもとへと押し寄せる結果となっています。
私たちもまた、神の言葉を求めています。
教会という「場」と出来事に期待しています。
私たちがここにいるのは、また、いかなる手段を用いてでもこうしてつながっていることは、求める心と期待の結果でありましょう。
押し寄せる群衆をご覧になったイエスは、ちょうど湖畔に居合わせた漁師たちに声をかけ、舟を少し漕ぎ出すように「お頼みに」なりました。
余りに人々が多いので、湖上から群衆にお話しになるためであったのです。
4節、「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。」
本日、注目しますのは、このイエスの呼びかけに対する漁師シモンの言葉です。
5節、「シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」
この漁師たちは、プロフェッショナルです。
漁の専門家です。
夜通し漁をして何も捕れず、舟から上がって網の手入れをしていたところです。
疲労と落胆の限界にあったことでしょう。
にもかかわらず、「お言葉ですから」というシモンの言葉には「結果はわかっている」という自負心とあきらめは退き、イエスという人物に対する敬意と、そして厚意がにじみ出ています。
この漁師シモンは、のちにイエスの弟子となり、ペトロと呼ばれる弟子です。
本日は、このシモンの「お言葉ですから」という、イエスへの応答から考えてまいります。
押し寄せて来た群衆は、イエスに対する「期待」にあふれていたことによる行動でありましたが、そこに居合わせた漁師たちは仕事上がりで片付けの最中、まだイエスと出遭ったばかりであり、イエスへの信頼や期待があったとは言い切れません。
むしろ、預言者らしき存在に対する敬意という思いはあったでしょうから、この応答はシモンの厚意に裏付けられたものであったように思われます。
日常では、「お言葉ですから」という言葉や対話が成り立つためには、そこに並み以上の「信頼」関係が必要であるように思います。
別の言い方をすれば、「期待」とも言えるでしょう。
そこにはまた、「敬意」があり、「厚意」もあることでしょう。
まず、「厚意」ということについて。
「こうい」という感情には、二つの漢字が当てられます。
一つは、好きな意思と書く「好意」。
これは、好んで自主的に行動することを表わします。
もう一つは、厚い意思と書く「厚意」。
これは、相手のことを思いやって行動することを表わします。
ある団体の後援会(後押しする会)との関わりの中で、主宰者の方が、「支援者の皆さんは、好きで支援しておられるのではなく、こちらの活動を理解して受け止め、思いやって支援してくださってるのですよ」と。
それぞれ好き勝手な気持ちからでなく、厚い心で支援してくださっていることに感謝しなければなりません、と教えられました。
私たちの教会生活はどうでしょうか?
それぞれが、キリストが好き、教会が好きという気持ちで支えているばかりではなく、キリストの生涯に共感し、現代においてもその実現のために厚い心で教会の宣教活動を支えてくださっているのではありませんか?
漁師シモンも、預言者と思われるイエスが、押し寄せて来た群衆をあわれみ、導こうとされる姿に対し、厚い心からの厚意で舟を漕ぎ出したのであろうと映ります。
さらに、イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」との呼びかけに、「お言葉ですから」と応えたシモンの態度には、人々の導き手としての預言者という働きに対する「敬意」(尊ぶ気持ち)が感じられます。
すでに「魚は捕れなかった」というシモン自身の経験が退くほどに、「先生、あなたがおっしゃるなら」という、並々ならぬ方を尊重するシモンの思いからの行動となっています。
さらに、大漁というシモンにとっては想定外の出来事に至っては、敬意が信頼を超えて、恐れに転じている様子が描かれます。
8節、「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」
「お言葉ですから」という対応には、相手を尊ぶ気持ち、ひいては、相手への信頼と期待に通じる思いの発露があるのです。
本日与えられました箇所を読みますと、人々の間で「言葉」というものが生き生きとしています。
人と人との間で言葉が生きて働き、人と人とをつないでいます。
1節では、群衆が神の言葉を「聞こうとして」押し寄せました。
3節では、イエスが漁師たちに舟を出すように「お頼みに」なっています。
5節では、「網を降ろしなさい」というイエスの言葉に対し、漁師たちは「お言葉ですから」と従います。
7節では、大漁によってシモンが助けを求めての「頼み」に、仲間たちが応えます。
10節では、イエスからの「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」という呼びかけの言葉に対して、漁師たちは「すべてを捨てて」従います。
この出来事において、言葉は淀みなく、滞りなく通っています。
これほどまでに気持ちよく「言葉」が通じる体験を、日常生活の中で味わうことがどれほどあるでしょうか。
言葉が通じるためには、敬意と厚意、信頼と期待が大切な役割を担っていると思われます。
イエスの初めての弟子が召される出来事を通して、10節にあるように、彼らは「すべてを捨てて」従います。
この「すべてを捨てて」と表現するのが、ルカによる福音書の特徴でもあります。
弟子の召命物語として、同じテーマで書かれている他の福音書を見ますと、
マルコによる福音書1章18節では、
「二人はすぐに網を捨てて従った。」
とあり、20節では、
「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」
となっています。
また、マタイによる福音書もマルコ福音書を踏襲して、
4章20節では、
「二人はすぐに網を捨てて従った。」
とあり、22節では、
「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」
としています。
どちらも、漁師としての宝であり誇りである「網」を捨てて、さらに、「舟」と「父」を残してのイエスへの追従でありました。
その上で、ルカによる福音書は、この出来事を「すべてを捨てて」と伝えるのです。
ルカが「すべて」という言葉に込めた思いは何であったのでしょうか。
「何を捨てたのか?」を問うよりも、「お言葉」を尊ぶ、すなわち、お言葉を取った・優先したということは明らかでありました。
シモンに「お言葉ですから」との言葉が生きて働いたように、私たちも、イエスからの御言葉と互いの言葉が滞ることのないように、敬意と厚意、信頼と期待の心を尽くしてまいりたい。
そして皆様の、キリストへの敬意と信頼、また、福音への期待と宣教への厚意に感謝致します。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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