2025.2.16説教「幸いなるかな」

顕現後第6主日

「幸いなるかな」

ルカ6章17-26

◆おびただしい病人をいやす

 6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、

 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。

 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

◆幸いと不幸

 6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。

 6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。

 6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。

 6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。

 6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。

 6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


 「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日与えられました御言葉は、ルカによる福音書6章17-26節です。

 まずルカ6章20節の、「貧しい人々は、幸いである」は、マタイによる福音書5章1節から始まる「山上の説教」で語られる、「心の貧しい人々は、幸いである」に呼応するところの、ルカによる福音書における「平地の説教」と呼ばれる御言葉です。

 違いは「心の」という言葉があるか、ないかです。

 

 そもそも、ルカによる福音書とマタイによる福音書は、キリストの生涯を語る上での立ち位置が違います。

 どちらもマルコによる福音書が書かれた西暦70年から遅れること10年、西暦80年頃に書かれた福音書です。

 西暦70年と言えば、エルサレムがローマの進軍によって神殿が破壊された年であり、見える神殿が壊されることにより、見えない神殿とも言える御言葉の神殿、あるいは書物という象徴として見える御言葉の神殿が起ち上げられたとも言える出来事でした。

 

 かつて紀元前550年、イスラエルの残りの地域であるユダ王国がバビロニアに陥落し、バビロンに連れられ、神殿を喪った時、かの地で初めて口伝であった神の言葉を文字として記録し、旧約聖書の最初の5巻が編纂されました。

 すなわち、最初に神殿を喪った時に旧約聖書のモーセ5書と呼ばれる最初の5巻が世に現れ、それから620年後、西暦70年に再建された第2神殿を喪った時に新約聖書の初めての福音書であるマルコによる福音書が世に出されたのです。

 つまり、御言葉に生きる民は、見える神殿を喪うごとに、見えない神殿としての御言葉の神殿を得て来たことになると言えましょう。

 書物と言いましても当初は本の形ではなく巻物でありましたが、次第に羊皮紙の表にも裏にも文字を書き、巻物を短く切り離して閉じ、今の本のスタイルに仕立て上げたのは聖書であろうと考えられます。

 聖書のことを、ヘブライ語でビブリオ、英語でバイブルと言いますが、このバイブルの語源と言えますビブリオは「書物」という意味であるのです。

 書物と言えば聖書、つまり本の形の起源と言うことができるのです。

 

 さて、本日の御言葉を見てまいりましょう。

 初めに、ルカによる福音書とマタイによる福音書は、キリストの生涯を語る上での立ち位置が違うと申し上げました。

 ルカ福音書6章17節を見て見ますと、

「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」

と始まります。

 これがルカ福音書の「幸いなるかな」が「平地の説教」とよばれるゆえんです。

 これに対し、マタイ福音書5章1節では、

「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。」

と記されています。

 それゆえにマタイ福音書での「幸いなるかな」は「山上の説教」と呼ばれて親しまれて来ました。

 どちらもイエスご自身による「幸せであれ」との呼びかけであり宣言です。

 

 それぞれの福音書の立ち位置を申しますと、

 マタイによる福音書はユダヤ教に対する優位な立場から語る「上からの福音」と言うべきものでしょう。

「山上の説教」というわけです。

 これに対し、ルカによる福音書の目的は、ユダヤ人を含むユダヤ以外の外国人へと仕えて行こうとする宣教が目指されており、「下からの福音」と呼べるものです。

「山から下りて、平らなところに立つ」すなわちアンダー・スタンド、下に立つ宣教、相手を理解しようとする宣教と言うことができます。

 これだけを見ると、ルカは人の生きる痛みを分かっているではないかと思われますが、ルカはすでに3章5節で引用のミスを犯しています。

 それは「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」とのイザヤ書40章4節から引用する際、ギリシャ語訳の旧約聖書を用いたことでした。

 ヘブライ語のイザヤ書では、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。」と告げられていたのです。

 これについては、すでに以前の説教で取り上げた通りです。

 

つまり、宣教とは「谷が身を起こす」ところに福音があるのであり、これが聖書の根本的な思想であるのです。

ギリシャ的な合理性に基づいた、「山を削って谷を埋める」ことではないということです。

 

ゆえにルカは旧約から伝えられし神のわざ・福音を学習中ということでありましょう。

現代の教会もまた、ルカに学び、合理的宣教ではなく、谷が身を起こす出来事としての宣教を学ぶのです。

とは言え、東京池袋教会において120年前からのフィンランド・ミッションの足跡を辿る時、ここにはマタイ福音書的な灯台のともし火としての宣教の役割を担ってきた教会の使命もすでに知らされるに至っております。

(井上三郎氏によるフィンランド系「福音ルーテル教会の歴史」の紹介)

 

 お話を進めて御言葉の内容に入ってまいりますが、ルカ福音書とマタイ福音書における、一つの違いを取り上げてまいりましょう。

それは、冒頭のルカ福音書6章20節「貧しい人々は幸いである」とマタイ福音書5章3節の「心の貧しい人々は幸いである」です。

 

マタイ福音書の御言葉に見る「心」とは「神の霊」のことです。

単に心の貧しさを言っているのではなく、神からの霊・聖霊について貧しいと言っているのです。

神の霊とは、人間を創り、誕生させた神の息吹、日々新たに御言葉と祈りとを通して神より賜る、人を生かす力のことを指しています。

神に生かされていることにおいて貧しいというのです。

しかしながら、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉を聞くことに潜む危険性とは、信仰というものを心の問題としてしまいかねないことでありましょう。

 

ルカ福音書では単に「貧しさ」とし、続く6章21節の「飢え」の問題にもマタイ5章6節のように「義」を加えてはいません。

現実の貧しさも視野に入れながら、神に対しての貧しさも見逃してはいないのです。

また、生きるということにおける飢え渇きを見つめつつも、神に対する飢え渇きを問い、人間の芯から潤され満たされることを求めるのです。

 人間は、見えるところの貧しさに惑わされてはいけないし、飢えにさいなまれてもいけない。

 しかし、現実にはそこで惑わされ、さいなまれている社会でもあります。

その上で「神の霊」に豊かになることとは何か、「神の義」に満たされ潤されることとは何かを問うているのです。

そして、ルカ福音書においては、世の豊かさが仮のものであることを、「不幸」な状態を告知することによって気づきをうながします。

 

最後に、ルカ福音書6章23節を見ますと、

「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」

とあります。

 合わせて初めの6章20節を思い出してみましょう。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」

とありました。

 ここには、貧しい人々が神の国をいただくから豊かになる、という約束以上に、貧しい者が貧しいままに神の国をいただくというところに福音が示されているように受け取ります。

 また、貧しい者が神に取り戻されるとき、神ご自身の報いこそ貧しい者たちであるようにも聴こえます。

 実に神の国において貧しい者が神の報いとされるところに信仰者としての幸いが隠されているように思うのです。

 

「天に喜びがある」とはルカの目指すところでもあります。

ルカ福音書15章10節の「無くした銀貨のたとえ」において、

「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

と言われている通りです。

 信仰者に喜びが起こることのみならず、私たちによって神の国に歓びが起こる知らせを受け取ってまいりたい。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」


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