2025.2.23説教「情けは人の為ならず」
顕現後第7主日
「情けは人の為ならず」
ルカ6章27-38
◆敵を愛しなさい
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
◆人を裁くな
6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。
本日の説教題は、「情けは人の為ならず」とさせていただきました。
言うまでもなく、日本の「ことわざ」でありますが、10年前に文化庁が「国語に関する世論調査」というものを行っており、その結果が文化庁月報の平成24年3月号に掲載されていました。
この文化部国語科の報告によれば、
「情けは人の為ならず」ということわざについて、
「『人に対して情けを掛けておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくる』という意味の言葉です。」
となっています。
ところが、世論調査の結果は、本来の意味である「人に対して情けを掛けておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくる」と理解している人は45.8%。これに対し、本来の意味ではない「人に情けを掛けてやることは、結局はその人ためにならない」と思い込んでいる人が45.7%という結果が報告されていました。
さらに、辞書による説明文が2例挙げられており、その一つ、「日本国語大辞典第2版」によると、「情けは人の為ならず」とは、「情をかけておけば、それがめぐりめぐってまた自分にもよい報いが来る。人に親切にしておけば必ずよい報いがある」との説明に加え、わざわざ補注として、「情をかけることは、かえってその人のためにならないと解するのは誤り」と指摘されています。
最初に、「情けは人の為ならず」という言葉を取り上げましたのは、本日の福音・ルカ6章35節から「神の情け」を聴くことになるからです。
「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」
もちろん、ここにおいては、「情けは人の為にならない」との誤解はありません。
神よりの情けは、人間のためのみならず、人間の堕落によって傷つけられた神の御名を、神が人間を救うという出来事を通して、神ご自身が御名を聖なるものとして取り返される出来事であるからです。
新約聖書の福音書は、イエスのご生涯を伝えるために、4人の著者たちがそれぞれの視点と信仰から編集したものですから、福音書ごとに豊かな個性があります。
4つの福音書を読み比べますと、共通する出来事がありますし、また、各書独自のものもあります。
最初の福音書・マルコを土台として、後のマタイとルカが福音書を編集するわけですが、マルコにはない話を共通して書いているならば、それはもう一つの資料があることを示唆しています。もう一つの資料は「Q」と呼ばれます。ドイツ語で「資料」を表わす言葉「クエレ」の頭文字を取って「Q資料」と言います。
このQ資料は、別名「イエスの語録集」とも呼ばれています。本日読んでおりますルカ福音書6章27-38節は、このイエス語録集の冒頭の部分に当たり、イエスが語られたままに伝えられ、編集されてはいない最古の言葉と考えられています。
イエスオリジナルの御言葉と言うわけです。クリスチャンとしては最も聴きたい言葉であると言えるでしょう。
とは言え、このルカ6章27節以下の部分は、マタイによる福音書5章38節以下と重なる「イエス語録」でありますが、いくつかの点でマタイの方がより原文に近いと思われます。
まず6章27-38節全体の印象から見てまいりますと、10個に及ぶ「~なさい」という言葉が印象的です。単に「しなさい」という命令ではなく、「~なさい」という神の情けによる呼びかけに聴こえます。イエス直々の10のススメを数えますと、
27節、「親切にしなさい」
28節、「祈りなさい」
29節、「もう一方の頬をも向けなさい」
30節、「与えなさい」
31節、「人にもしなさい」
35節、「愛しなさい」「貸しなさい」
36節、「憐れみ深い者となりなさい」
37節、「赦しなさい」
38節、「与えなさい」
となります。
どれも、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、イエスを支持する者たちが述べた言葉を思い起こします。
ルカの伝える「イエスの10のススメ」(モーセの十戒に対して言えば、キリストの十戒と言うべきススメ)に比べ、マタイの伝える「イエスの10のススメ」には前文が付けられています。
ここでルカとマタイの違いについて、そして、マタイがルカよりも原文に近いという理由を見てまいります。
マタイによる福音書(新約8頁)
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
となっています。
まず、5章38節のマタイが付けた前文について、
「『目には目を、歯には歯を』と命じられている」
とあります。
「目には目を、歯には歯を」との言葉は、聖書には4か所記されており、出エジプト記21章、レビ記24章、申命記19章、マタイ福音書5章となっています。
これまでもお話して来ましたように、この言葉の出典は、紀元前1500年頃の人物と思われるモーセの時代よりも古く、紀元前1792年から前1750年までバビロニアを治めた王・ハムラビによって発布されたハムラビ法典に刻まれた言葉であります。
争いにおいて、気が済むまでやり返すという徹底報復の時代に終止符を打ち、相手から受けた痛み以上のことを相手に返してはならないという同害報復の世界を開いた画期的な法律でありました。
のちの時代に、この「目には目を」の言葉が聖書にも加えられたのは、紀元前600年から550年、国を失ったイスラエルの民がバビロニアの首都・バビロンに捕らえられていた捕囚の時代に、初めて聖書の最初の5巻が書物として記述されたことが背景となっているように思われます。ハムラビから1000年以上あとのことでした。
マタイは、この「目には目を」という言葉を取り上げながら、「イエスの10のススメ」は、これ以上の愛を求めるものであると伝えるのです。ここにマタイの狙いがあります。
38節、「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし!」
であります。
39節、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
と続きます。
「相手から受けた痛み以上のことを相手に返してはならない」というばかりか、「敵を愛しなさい」とのススメです。憎しみに対して憎しみで向かうのではなく、暴力に対して暴力で応えるのではなく、憎しみにも暴力にも愛で応えることを勧めています。「憎しみの連鎖を断つ!」ということが求められているのです。
ルカは6章29節で、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」と、頬の右も左も明記してはおりませんが、マタイはまず右、さらに左もと書いています。
「右の頬を打つ」という表現から、どのような状況を連想されるでしょうか。これは単なる平手打ちの様子ではありません。右手で平手打ちをした場合、打たれた者の頬は左です。右の頬を打つには、右利きの打ち手であるならば、右手を体の左側まで降り下げ、手の甲で相手の右の頬を打ちという、平手で打つよりも大きな痛みを与える打ち方が表現されているように思われます。このような仕打ちにさえ逆らわず、むしろ従順に左の頬をも差し出しなさいと求める言葉とされています。
「頬を打つ」ことは、古くから相手を侮辱する態度であったことが旧約聖書の中に記されています。例えを見ますと、
ヨブ記16章10節、
「彼らは大口を開けて嘲笑い/頬を打って侮辱し/一団となってわたしに向かって来る。」
哀歌3章30節、
「打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。」
などが挙げられます。
マタイ福音書がルカよりも古い原文であることの理由として、同じルカ6章29節の後半、
「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」
との言葉が、マタイ5章40節では、
「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」
となっていることです。
何が違うかと申しますと、ルカは上着を取られたら下着もと言い、マタイは下着を取る者には上着もという点です。「上着を脱がなきゃ下着は取れないでしょ?」と、マタイの言い方の方がおかしく聞こえるでしょうけれども、マタイはイスラエル的な古い表現ですが、ルカの言い方はギリシア的・合理的解釈なのです。
「上着」にまつわる「古い言い伝え」・イスラエルでの戒めが最初に記録されているのは、出エジプト記22章25節以下です。
「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」
とあります。申命記24章13節では、
「日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。」
と命じられています。
このように、上着を奪って返さないことは許されませんでした。また、上着は「神の情け」の表れ・しるしとして扱われています。
イスラエル時代にあってもユダヤ当時でも、上着に示される神の情けが尊ばれる社会において、イエスが伝道の旅の最後にエルサレムへ入城される際、人々が道に上着を敷いたという態度には、イエスに対する民衆の尊敬と希望が表れていました。
上着が先か下着が先かはさておき、いずれにしても、ここで神の情けである「上着」までも与えなさいとのススメであることは同じです。
ユダヤ人としての尊厳である上着を差し出す時、それで覆われていた恥と弱さはどうすればよいのか。
創世記3章21節、
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
罪ゆえに裸であることを恥じたアダムとエバに、神は衣をまとわせ、エデンの園から追放されました。
イザヤ書61章2-3節、
「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」
イザヤ書61章10節、
「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」
本日の御言葉は、神の情けゆえに「憎しみの連鎖を断つ」ことを求めます。
ルカ6章35節、
「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」
キリストは人間の罪ゆえに、鞭打たれ、剥ぎ取られ、十字架に架かり、刺し貫かれました。にもかかわらず、ルカ23章34節、
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕と赦されました。
この「キリストによる神の情け」を「キリスト者自身の使命」とするために、伝道者パウロは新約聖書の手紙の中で「キリストを着る」という表現を用いて語り尽くしています。
Ⅰコリント15章53節以下、
《この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」》
Ⅱコリント5章2節以下、
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。…死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」
ガラテヤ3章26節以下、
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」
コロサイ3章10節、12節、
「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。…あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」
人間は自らの手で「憎しみの連鎖を断つ」ことは未だ実現できていません。神の情けだけが、憎しみを乗り越えさせる希望です。赦された者が、赦してくださるキリストの御言葉を伝えることによって、平和への道が一歩進められることを信じます。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。
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