2025.3.9説教「誘惑」

四旬節第1主日

「誘惑」

 

ルカ4章1-13

◆誘惑を受ける

 4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、

 4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

 4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」                                                            

 4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

 4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。

 4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

 4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

 4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

 4:9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。

 4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』

 4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」

 4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

 4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


「私たちの神と主イエス·キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

教会の暦では「灰の水曜日」を過ごし、四旬節を迎えました。聖卓布は紫色となり、イエスの受難を偲ぶ期間を過ごします。

 

今年の復活祭は4月20日です。春分の日が過ぎた満月の次の日曜日と定められています。

イエスの「荒れ野の誘惑」での40日の断食にならい、その日から日曜を除いて40日さかのぼった日が灰の水曜日であり、イブにはカーニバル(謝肉祭)が行われます。

 

キリスト教の祭りで日本に定着したものは、まだクリスマスぐらいでありますが、クリスマス・イブを始めとし、11月の全聖徒主日のイブとして派生したハロウィーンや、灰の水曜日のイブであるカーニバルは、世界的に認知されるに至っています。

カーニバルと呼ばれる祭りは「謝肉祭」とも言われ、翌日の灰の水曜日からはキリストの受難を偲ぶ期間となりますから、日常生活においても食生活においても慎み深く過ごし、「肉断ち」をしたという古い習慣において、前夜には肉を頬ばったというのがカーニバルの始まりであると言います。

灰の水曜日の「灰」というのは、燃えかすの灰のことを指していますが、この灰は1年前の復活祭の前の週、すなわち受難主日または棕櫚主日に、イエスのエルサレム入城の場面の御言葉を読む礼拝で、かつてユダヤの人々が棕櫚の葉を持ってホサナと叫びながらイエスを出迎えたことを記念し、礼拝などで飾った棕櫚の葉を取って置き、次の灰の水曜日に用いるのです。

灰を水や油で溶き、額に付けるか十字を書くかして、キリストの十字架を偲ぶ習慣から、灰の水曜日と呼ばれています。

 

四旬節の期間は、肉断ちばかりではなく、大好きなものを我慢し、お酒を飲まなかったり、チョコレートを食べなかったりと、克己したり節制したりとそれぞれが工夫して過ごします。

今年の四旬節は、終わらない戦争、終わらせられない人間の愚かさを覚え、四旬節の日々を祈りつつ過ごしています。

 

かつて幼かった頃には父に連れられて復活祭直前の受難週の早朝、毎朝教会に集い合い、祈り合い、質素な食事を分かち合ってから、職場や学校へと出かけたこともありました。

今は多様な社会となり、集まることすらままならない時代ではありますが、教会の本質は「共に生きる」ことであり、「分かち合うこと」にありますから、分かち合う群れを目指してまいりましょう。

 

 本日与えられました御言葉は、ルカによる福音書4章1-13節までとなっています。

「荒れ野の誘惑」と呼ばれ、教会ではよく知られた出来事であります。

まず1節では、

「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中をによって引き回され、」

と始まります。

 イエスが洗礼を受けられた出来事の後に続きます。

 

「荒れ野の誘惑」については、毎回お話しすることになりますが、この出来事はマルコ福音書1章、マタイ4章にも記録されております。

 そして、最も興味深いことは、3人の福音書の著者たちが、それぞれに「聖霊」という神の働きかけの違いについて描き出している点です。

本日読んでおりますルカは、「霊によって引き回され」と書き、風のごとき聖霊の吹き回し、力づくで連れまわすような聖霊の仕業として描いています。

これに対し、マルコ福音書によれば、マルコの「荒れ野の誘惑」の記録は、聖書には4行記録しているのみであり、聖霊については、はイエスを荒れ野に送り出した」と描き、「送り出す者」としての聖霊を伝えています。

また、マタイ福音書では、に導かれて荒れ野に行かれた」と書かれており、「導く者」としての聖霊が伝えられています。

ルカ4章2節、

「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」

ルカは「四十日間」とだけサラリと書いていますが、ここをマタイは「昼も夜も断食した」と加えており、当時のユダヤ教ファリサイ派の人々や洗礼者ヨハネの弟子たちなども断食しておりましたが、彼らの昼間だけの見せる断食ではなく、イエスの場合は「夜も断食する」という自分との対峙であることが強調されています。

 

また、マタイでは「四十日間」経った後にようやく「誘惑する者」が現れますが、ルカでは「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」とあるように、その期間すべてに渡り悪魔からの誘惑であったと書かれています。

つまり、ルカでは、より過酷な戦いであったと伝えられます。

 

「悪魔から誘惑を受けられた」という、この「悪魔」、正体はいったい何でありましょうか。

ルカは、この出来事を描くに当たり、6回「悪魔」という言葉を使います。

まさしく「悪魔」について語っています。

これに対し、マタイ福音書では「悪魔」という単語のほかに、「誘惑する者」または「サタン」と呼び、悪魔の姿を立体的に描いています。

つまり、マタイの説明を借りれば、ルカの言う「悪魔」とは「誘惑する者」であり、「サタン」と呼ばれる存在でありますが、これら悪魔、誘惑する者、サタンは、同じものを指しています。

マルコ福音書では、ただ「サタン」とのみ描かれています。

そもそも旧約聖書では「悪魔」という日本語訳はなく、すべて「サタン」として訳され、登場しています。

「サタン」とは何者かということに関し、ヨブ記に興味深い記述があります。

ヨブ記1章7節、

《主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。》

とサタンの所在について描かれています。

「悪魔」や「悪霊」を記すルカ福音書にも、イエスによる「サタン」についての発言があります。

10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。

10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

これらから「サタン」の素性を推察しますと、「天から落ちこぼれ、地上を徘徊する者」ということになります。いわゆる「堕天使」と言える存在です。

さて、ルカ4章13節を見ますと、

「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」

とあります。

本日は、この「時が来るまで」という表現に注目致します。

このことは、誘惑の期間が終わり、悪魔が自ら「時が来るまで」退いたのではなく、イエスによって「退けられた」と読むことがふさわしいでしょう。

なぜならば、「荒れ野の誘惑」の出来事においては、はじめに他の福音書と比べながら、聖霊がイエスに働きかける様子の違いについてお話ししました通り、聖霊は「引き回す者」であり、「送り出す者」であり、「導く者」でありますから、イエスに起こる出来事の主導権は、すべて聖霊が握っていたことが分かります。

それゆえ、誘惑の期間が終わって、「悪魔」が自ら退いたのではなく、聖霊によって、あるいはイエスご自身によって「時が来るまで」退けられたのです。

では、次に「悪魔」がイエスに近づくことが許される「時」とは、いつのことでしょうか。

ルカ22章1-3節を見ますと、

22:1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。

22:2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。

22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。

とあるように、イエスの受難が始まろうかという時でありました。

 

ルカ福音書ではありませんが、ヨハネ福音書13章27節では、《ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。》

とあるように、ここでもまた、受難の主導権をサタンがにぎっているのではなく、イエスによる「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という発声により、受難への道が始まったのだと告げられています。

受難とは、降りかかって来る災難であるとするならば、イエスが決断し、その初めを発声されたことにより出来事の主導権はイエスにあり、もはやこれは受難とは異なる出来事に思えます。

 

最後に、聖書の言う「時」というものについて聴いてまいります。

聖書には二種類の「時」あるいは「時間」というものが書かれています。

「神の時」と「人間の時間」です。

「神が定める時」(カイロス)と「人間が過ごす時間の流れ」(クロノス)というものです。

かつて礼拝で用いておりました「口語訳聖書」の翻訳には、「時」についての名訳・名文がありました。

それは、伝道の書311節です。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」

とても印象深く、心に残る名文でした。

 今用いております「新共同訳聖書」では、

コヘレトの言葉311節となり、

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」

となっています。

ここで言われている「時」こそ、神が定めておられる「時」でありました。人の都合ではない、神ご自身の予定のことです。

 

ルカ福音書も、神には「時」があると語ります。

ルカは「時」の真ん中にキリストを置いて考えます。世界の初めから世の終わりまでを捉えます。

これまでとこれからを、今共におられるキリストを中心に考えます。

つまり、これまでの罪をキリストに赦され、これから犯すであろう罪をもキリストに赦されているという、「ただ一度の十字架による罪の赦し」についてです。

また、これまで共にいてくださったキリストが、これからも共にいてくださるという「約束」です。

ルカが語る神は「時」を司られる神です。

 ルカによる福音書

1:20が来れば実現するわたしの言葉」

5:35 しかし、花婿が奪い取られるが来る。そのには、彼らは断食することになる。」

12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないに来るからである。」

12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけないに帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今のを見分けることを知らないのか。」

13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うが来るまで、決してわたしを見ることがない。」

16:16 律法と預言者は、ヨハネのまでである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。

19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださるをわきまえなかったからである。」

20:10 収穫のになったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。

21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放のが近いからだ。」

人間の「時」について語られている箇所もあります。

22:53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちので、闇が力を振るっている。」

神は、「時の神」です。「時」を定め、引き受ける神です。

この神を、「神の時」に追い遣らず、「時の神」として回復すべきでありましょう。

なぜならば、私たちの人生を共に歩んでくださる神であるのですから。

 

本日は、イエスの「荒れ野の誘惑」は、悪魔の仕業によるものではなく、聖霊によって備えられたものであることとして読んでまいりました。

私たちの生きる人生という時間の流れを、聖霊の導きに、「時を司られる神」に帰すべきでありましょう。

その時、悪魔の誘惑としか思えない出来事が、神からの試練へと変えられます。それは希望へと続く道のりであるのです。

パウロは言います。コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節、

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

また、ローマの信徒への手紙5章3節では、

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

 四旬節にキリストが自ら背負われた十字架を偲ぶ時、出来事の主導権をキリストが司っておられることを覚える時、それは受難に終わるものではなく、希望へと続く試練であることを知らされるのです。

 苦しみから逃げる限りそれは重く、しかし自らそれを背負うならば荷は軽いのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」