2025.3.30説教「生かす神」
四旬節第4主日
「生かす神」
ルカ15章11-32
◆「放蕩息子」のたとえ
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
四旬節第4主日を迎えました。
本日与えられました福音書の御言葉は、ルカ15章11節から始まる、「放蕩息子のたとえ」として知られるところです。
ここで示されているのは、言うまでもなく、「親の愛」に例えられた「神の愛」というものです。
神は御子イエスに対して、主の洗礼の時、また、主の変容の時に、「わたしの愛する子」と呼んでおられる通りです。
イエスご自身は、私たち・主を信じる者たち、そして、信仰を持って召された者たちを「神の子」と呼んでおられます。
ルカ20章36節では、
「復活にあずかる者として、神の子だからである。」
と教えておられます。
また、マタイ5章9節には、
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」
とあります。
ヨハネ1章12節では、
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
と語られています。
さらに、ヨハネ11章52節では、
「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」
と、イエスの受難の目的と拡がりを告げられています。
たとえ話の親には、二人の息子がいました。律儀な兄と、奔放な弟が登場します。
事の発端は、15章12節、
「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。」
と始まります。
13節、
「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。」
と話は進みます。
話は下り、25節、
「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。」
とあり、家の近くであり、程遠くない畑で働く兄の姿が記されています。
ここで、弟と兄の対比があり、また、「遠く」と「近く」という対比があります。
まずは、彼らの「親との距離」を見てみます。
たとえ話が描く「親との距離」とは、もちろん「神との距離」を示唆している事柄でもあります。
「遠く」と「近く」という言葉・単語に目を留めてみますと、聖書が「遠い」という時には近く、「近い」というときには「遠い」実態を問うている特徴に気が付きます。実際の距離とは正反対である、内実の遠さを問うています。
例えば、マタイ15章8節やマルコ7章6節の、
《『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。』》
とイエスが語られていることは象徴的です。
ルカ22章54節のイエスが連行される場面では、
「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。」
とは、「遠く」とは言え、見えるほどのところにいるにもかかわらず、もはや遠い存在となっている姿を描き出しています。
しかしながら、聖書は「遠く」という言葉を用いながら、迫って来る圧倒的な「近さ」を描くことの方が多いのです。
ルカ18章13節の祈りの場面では、
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」
神殿に上って祈るファリサイ派と比べ、神殿から遠く離れて祈る徴税人と神との距離は遥かに近いことが伝わります。
ルカ17章12節では、
《ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。》
とあります。
ここで「遠くの方に立ち止まったまま」という距離は、重い皮膚病の者たちにとっては、最もイエスに近づいた距離であったことがわかります。
また、マルコ12章34節では、
「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。」
と、律法学者までも「遠くない」との祝福を受けています。
マルコ5章6節では、
《イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」》
と、悪霊でさえ神の子を知っており、御前に馳せ参じます。
ルカ23章49節の主の十字架の場面では、
「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」
この遠くに立って十字架を見守る女性たちとイエスの距離はもはやなく、彼ら自身もまたイエスと共に痛み、苦しんだのでありましょう。
実際、ルカ2章35節では、幼子イエスと共に宮詣に来た母マリアは、神の人シメオンから祝福を受けますが、同時に、「あなた自身も剣で心を刺し抜かれます」と、イエスの人生の宿命を告げています。
さて、たとえ話を読み進めますと、
14節、
「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。」
と、放蕩息子は苦境に立たされます。
そして、15節、
「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」
とあります。
(豚と共に生きた開拓民)
ここまで来て、ようやく思い返した息子は、17節、
《そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』》
「我に返る」ことを「悔い改め」と言うのでありましょう。息子は180度人生を転換して、親の元に向かうのです。
20節、
「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
と、親の愛が溢れ出しています。
親は、まだ「遠く」離れていたのに、彼を見とめ、走り寄っています。親は神、まさに神があなたを見つめ、見とめ、走り寄ってくださることを映しています。
親にとっては子どもとの距離はないのです。また、このことは、神においては私たちとの距離はないということでありましょう。
そればかりか、22節、
《しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。》
と、親は最大限のもてなしをするのです。神が痛む者を良い物で包み、内から満たす様子が描かれています。
息子も礼儀はわきまえていたのか、21節、
《息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』》
と、思いの丈を述べています。
この放蕩息子には、親に大歓迎されるほどの「悔い改め」があったでしょうか?
15節にあるように、彼はただ、「腹を満たしたかった」だけでありました。
「腹を満たしたかっただけ」という様子から思い出される聖書の箇所があります。
ルカ16章20節以下の「金持ちとラザロ」のたとえです。
《この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。》
という話です。
貧しいラザロについては「腹を満たしたい」という思いしか記されてはいません。金持ちについても、ことさらの罪は描かれてはいません。何が彼らの来世を分けたかと言えば、ただ神の憐れみによるものでした。
放蕩息子においても、彼はただ「腹を満たしたかった」だけでありました。
にもかかわらず、親は失われていた息子を憐れむのです。
24節、
《この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。》
親が子を憐れに思うことと取り戻した喜びは、何ものにも代えられないことは充分に分かります。
では、あなたが神にとって「そうである」ことは、承知しているでしょうか?
このことを分からせ、思い返させるための「放蕩息子のたとえ」であります。この、当たり前の親の愛にたとえられる神の愛を、私たちはわかっているのでしょうか?
我に返り、悔い改めは起こったのでしょうか。180度の人生の転換は果たされたのでしょうか?
息子の兄の方も気の毒なものです。
25節以下、
《ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』》
ユダヤ教のファリサイ派や律法学者がそうであったように、現代のキリスト者もまた、この兄の立場に立たされているように思えます。
そこで親は答えます。31節、
《すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」》
この、親の言葉に、一日1デナリオンの「ぶどう園の労働者のたとえ」を思い起こします。
マタイ20章15節、
《自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」》
神の憐れみによる、共通の結語となっています。
放蕩息子は、パンを求めての親の元への帰還でありました。
兄もまた、パンを求めての労働の日々でありました。
しかしながら、ルカ4章4節、
《イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。》
とあるように、人はパンだけで生きるものではないのです。
人を「生かす糧」が求められています。
「生きる糧」ではなく、「生かす糧」とは何でありましょうか。
「放蕩息子のたとえ」では、親の憐れみ、神の愛であり、また、息子たちにとっては「喜ばれる体験」でありました。
32節、
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」
神は、見失った者を見つけることにより、死んでいたのに生かすことにより、神となられます。
キリスト者は、神に見出されることにより、御言葉と聖餐と、聖霊の息吹によって生かされることにより、キリスト者とされます。
そして、キリスト者は、教会の使命として、神とキリストと聖霊によって社会に遣わされることにより、人を喜ぶ奉仕者とされるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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