2025.4.13説教「共感」
主の受難
「共感」
ルカ23章26-31
◆十字架につけられる
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
教会の暦では、春真っ盛りの頃はいつもキリストの十字架での受難を偲ぶ四旬節を過ごすこととなります。
本日の説教のテーマは「共感」というものです。
数年前、「共感力」という本が話題となりましたが、それと同時に、「鈍感力」という本も話題となったように覚えています。
しかし、ここで「共感力」を持とうという話をするわけではありません。
学問の上では、心理学やカウンセリングを学ぶ時には必ず「共感」ということを考えます。
牧師や福祉従事者、心理士となる者は学ぶところであり、牧師となる神学校でも教えられていました。
私は理論上の共感という事柄を鵜呑みにはしませんでしたから、最後まで大学の教授とは交わるところがありませんでした。
それは、人の心がわかるというのは「神の領域である」と受け止めていたからです。
エレミヤ書の言葉に、次のようなものがあります。
17章9節、
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。」
とある通りです。
ところが、かつて幼稚園に関わっていた際、庭で子どもたちを眺めていますと、子どもたちというのは、実に「共感力」に富んでいると思わされました。
それは、園庭で誰かの泣き声を聴いたならば、素早く声の出どころを探し当て、飛んで行って泣いている友だちの横に座るのです。
それも一人だけではありません。
何人もの子どもたちがやってきて、団子のように寄り添って座っているのです。
何か慰めの言葉を言うのでもなく、気の利いた慰めの言葉を言えるわけでもありません。
泣いている子が泣き止むまで、ただじっと寄り添っているのです。
子どもたちの素晴らしい特性です。
大人の相談者においては、まずお話を聴くという傾聴を致します。
アドバイスが求められているわけではなく、アドバイスをするのでもなく、事実確認をしながら、ただ聴くのです。
そして、最後に求められているものは、「そうなんだね」という肯定する言葉であり、相談者が受容される体験であるのです。
社会という枠組みの中で、誰もが他者から非難されないように細心の注意を払って生きています。
にもかかわらず、人間関係のトラブルというものは避け難く降りかかってまいります。
一難去ってまた一難ならばともかく、一難去らずにまた一難というストレスが重なっていく社会生活の中で、誰もが受容される場を求めていることでしょう。
肯定される体験を必要としているように思われます。
さて、本日の御言葉は、ルカによる福音書23章26-31節を取り上げました。
受難主日は、キリストの受難の山場・クライマックスであり、十字架の出来事を読む礼拝です。
キリストの受難については、4つの福音書が多くの情報を伝えています。
例えば、本日読んでおりますルカによる福音書であれば、22章から24章に至るまでの7頁にわたって、キリストの受難について書かれています。
このように数ある受難の出来事の中から、本日は特に23章26節から31節という、あまり気に留められることのなかった箇所に注目します。
23章27節を見ますと、
「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」
とあります。
民衆や特に嘆き悲しむ女性たちは大きな群れを成し、なぜイエスの十字架への道行き(ヴィア・ドロローサ)に従ったのでありましょうか。
日頃から社会生活を円滑に送るための「共感力」に優れた現代人は、イエスの受難での痛みや十字架への苦しみに対する民衆の「共感」として、不思議に思うこともなく自然に読んでいることでしょうし、そのように読んでしまいます。
それゆえに、このような言葉に立ち止まることもないでしょう。
しかし、実はこの十字架への行列は、当時の死刑囚に対するユダヤでの習慣であったというのです。
権威ある聖書学者によれば、
「死刑囚の処刑の際、人々が声高に嘆きながら、その最後の行進について行く習慣があった。」
と説明し、「ルカもまたこの習慣に倣った」とされています。
そしてさらに、
「イエスの死に深く震撼させられた人々がいたから、(ルカが)記録したわけではない。」
と解釈されています。
調べていて私自身も驚きました。
では、彼らは何のために従っていたのであろうかと。
私自身は彼らの何に共感したのだろうかと。
実際、テレビなどのドキュメント番組を見ていますと、幾つかの国では、大声で泣きわめくことを仕事とする「泣き女」という職業が存在しています。
葬儀の際は彼らを雇うのだと言います。
そうすると、私たちの持ち合わせる共感力と全力の善意をもってしても、もはやイエスの十字架の道行きに従う民衆の行列の中に、イエスが負われた苦しみに共感する者を見出すことは出来ません。
また、私自身にある共感力など、その共感力《のようなもの》によって、返って聖書の言葉を読み違えてしまうものに過ぎないことに気づかされます。
ルカ22章61節を見ますと、
《主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。》
とあるように、この出来事以後、十字架に至るまでルカにおける弟子たちの姿はなく、復活の朝まで現れることはないのです。
ただし、23章49節だけには、
「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」
と、遠くからイエスの最期を見届けようとする女性たちの姿が書き留められています。
23章28節には、
《イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。》
とあります。
これは、ヴィア・ドロローサ、イエスの十字架の道行きにおける、イエスから民衆への最期のメッセージとなっています。
ルカ福音書においては、この十字架という危機的状況においてイエスが語られた御言葉こそ、何よりも大切なものとされています。
十字架に至ってなお民衆に残されている福音は、もはやイエスによるこの悔い改めの呼びかけ以外にありません。
これまでルカは、エルサレムと民衆の運命について、再三にわたり警告を発して来ました。
11章50-51節、
《こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。》
13章34節以下、
《エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。》
19章41節以下、
《エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。》
21章20節以下、
《「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。》
そして、23章31節、
《『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」》
「生の木」である正しい人イエスにして十字架が与えられるとすれば、「枯れた木」である「神を拒む者たち」はいったいどうなるのだろうか、と。
木を始末する者の背後には神がおられます。
イエスはご自身の死に方にある神の御旨を受けて従われます。
預言により警告を発して来たルカでしたが、にもかかわらず、十字架への道行きでイエスの心を動かした神の御旨がエルサレムへの報復でなかったことは、最期にして驚きでありました。
こうして、イエスはご自身の死に向かいつつ、なお民衆へと悔い改めを呼びかけるのです。
十字架の道行きに従う民衆の中に、イエスの痛みに共感する者がいないということが、実は100パーセント神の御旨を表わすことになるのです。
神は自らの痛みに共感者を求めてはおられません。
イエスの民衆への呼びかけは、
「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」
でありました。
私たちに対する神の救いとは、イエスの十字架での痛みに共感することではありません。
私たち自身が思い直して生きることにあります。
最後に、「神の痛みの神学」という理解についてご紹介します。これは、日本の神学者・北森嘉蔵氏が提唱した神学です。
戦前はルーテル教会の牧師でしたが、戦後、日本基督教団からルーテル教会が離脱した際、日本基督教団に留まられました。
「神の痛みの神学」は、1946年に出版されました。
「神の痛み」とは、神が自らの愛に反逆し、神にとって滅ぼすべき対象となった罪びとに対し、神がその怒りを自ら負い、なお罪びとを愛そうとする神の愛を意味しています。
愛と赦しは、神の葛藤という痛みなしには有り得ないというものです。
十字架の愛は、神の怒りという直接的な愛とは異なり、痛みの基づいた愛である。
これは、1965年に英訳され、1972年にドイツ語訳され、「神概念の革命」と評価され、日本というアジアの教会が、欧米に対してキリスト教的に貢献した一歩です。
全能の神、絶対の神が痛むことなど有り得ないとされていた時代から76年を経て、今や常識とされつつあることはキリスト者にとって、ひいては人類にとって神の恵みです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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