2025.4.20説教「すがりつく」

主の復活

「すがりつく」

 

ヨハネ20章1-18

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリ

アは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛し

ておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げ

た。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、

わたしたちには分かりません。」

20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ

行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロよ

り速く走って、先に墓に着いた。

20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しか

し、彼は中には入らなかった。

20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布

が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置い

てなく、離れた所に丸めてあった。

20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、

見て、信じた。

20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっている

という聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をか

がめて墓の中を見ると、

20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の

天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座ってい

た。

20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、

マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置か

れているのか、わたしには分かりません。」

20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておら

れるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれ

を捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あな

たがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて

ください。わたしが、あの方を引き取ります。」

20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、

ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。

まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのと

ころへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたが

たの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神であ

る方のところへわたしは上る』と。」

20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたし

は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた

がたにあるように。」

 

イースター・主の復活、おめでとうございます。

キリストの復活を記念する復活祭は、キリスト教会の原点です。

本日のヨハネによる福音書20章18節に、《マグダラのマリアは

弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、

また、主から言われたことを伝えた。》とあるように、マグダラ

のマリアがイエスの弟子たちに、 「わたしは主を見ました」とキ

リストの復活を証言ことから、キリスト教は始まりました。

ヨハネ福音書によれば、 マグダラのマリアがキリストの復活を

証言したのは、 十字架上で亡くなられたイエスのご遺体を納めた

墓が空っぽであったからではありません。

マグダラのマリアは、キリストの墓前で復活のキリストに出

会ったことを証言したのです。一言ではありましたが、勇気ある

証言でありました。

 

本日与えられました福音である、ヨハネ福音書20章1節から、

キリストが復活された朝の様子を見てまいりましょう。

20章1節、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」と始ま

ります。

現代の曜日に照らし合わせますと、「週の初めに日」とは日曜

日のことを指しています。すると、当日を含めて3日さかのぼり

ますと、イエスが十字架にお架かりになったのは金曜日でした。

ユダヤ教の慣習では、金曜日の日没から安息日が始まり、土曜

日の日没までとなっています。その間は、働くことはもちろん、

移動する距離までもが制限され、活動することは許されません。

 

そこで、 イエスが十字架にお架かりになった一日をたどります

と、マルコ福音書15章25節では、

《イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。》

と記録されています。 事実だけを忠実に記録したと言われる著者

マルコですから、おそらく9時から十字架上でのイエスの苦しみ

は始まったのです。

ルカ福音書23章44節では、

《既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時ま

で続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂

けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆ

だねます。」こう言って息を引き取られた。》

 

とあります。

このようなわけで、午後3時にイエスが息を引き取られたとな

ると、十字架上からご遺体を降ろし、墓に納めるという作業は日

没までしかできません。

マルコ福音書15章42節以下を見ますと、

《既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日

であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、

勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれ

るようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。

ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百

人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百

人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜

麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を

掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。

マグダラのマリアとヨセフの母マリアとは、イエスの遺体を納めた

場所を見つめていた。》

と、イエスのご遺体を墓へ埋葬する様子が伝えられています。

 

安息日が始まり、土曜日は行動することが出来ないままに日没

を迎えます。当時の漆黒の夜は移動することなど出来ません。

眠れぬ夜を過ごしたのか、あるいは、目覚めたままに夜を明か

したのか、

《週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは

墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。》

のです。2節、

《そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛してお

られたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。》

とあるように、マグダラのマリアは“直ちに”行動しています。

初めにマグダラのマリアが目撃したものは、 《墓から石が取り

のけてあるのを見た》 だけでありましたから、 主の弟子たちには、

《「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わ

たしたちには分かりません。」》と、第1の証言をしています。

続く、3節以下、《そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、

外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の

方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中

をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らな

かった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻

布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻

布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、

先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。》

とマグダラのマリアの証言を聞いて、弟子たちまた“直ちに”行動

した様子が報告されています。この二人の弟子たちについて、9

節、 《イエスは必ず死者の中から復活されることになっていると

いう聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。》

とヨハネ福音書の立場から説明がなされていますが、10節、 《そ

れから、この弟子たちは家に帰って行った。》と、弟子たちの行

動については締めくくられています。

どういうわけか、キリストが復活された朝、墓場において、弟

子たち自身の証言は無いままに、彼らは帰って行ったのです。

8節には、弟子たちの心境について、「見て、信じた」と福音

書による説明がなされていますが、彼らは何を見て、何を信じた

のでしょうか。彼らの前にあったのは、空っぽの墓だけであった

のですから。

あるいは、「主が墓から取り去られました。どこに置かれてい

るのか、わたしたちには分かりません」と言ったマグダラのマリ

アの証言を信じたとでもいうのでしょうか。

ヨハネ福音書によれば、弟子たちは彼女の証言を信じられな

かったからこそ、急ぎ墓場までやって来たのでありましょう。

“聖書学者”においては、弟子たちは荒らされていない空っぽの

墓を通して、 キリストの復活を信じたのだと好意的に解釈されて

いました。その根拠は、「見ないで信じる」ことが、ヨハネ福音

書の最終的な目的であるからでしょう。

私には、マグダラのマリアが言った通りだったことを信じた、

ぐらいにしか響いては来ませんが。

 

まず、墓に入ったのは弟子のペトロでありました。もう一人の

弟子は先に墓に着いたにもかかわらず中には入らず、ペトロが

入ったのを見届けてから、ようやく墓に入ったのでした。マグダ

ラのマリアは一度も墓には入りません。墓に入ることを躊躇し、

また恐れた、あとの者たちでした。

ペトロが怖れず墓へ入って行ったのは、 イエスとの距離の近さ

であろうと受け止められます。

実際、ペトロは、イエスの逮捕に伴い、イエスとの関係を3度

も拒む姿も描かれていますが、

マタイ26章35節では、

《ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あ

なたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。》

と、彼の心意気も伝えられています。

もう一人の弟子が、ペトロよりも早く墓場に到着しますが、彼

はすぐには墓の中には入りません。躊躇しています。

ペトロが到着し、彼が中に入ったところで、ようやくもう一人

の弟子も墓穴へと入っています。

この弟子の躊躇こそ、 《イエスは必ず死者の中から復活される

ことになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していな

かったのである。 》 という説明が意図するところでありましょう。

 

ところで、マグダラのマリアは、このキリストの復活の出来事に

おいて、墓の中には一切入りません。

他の福音書の描き方を見ますと、例えば、マルコ16章1節には、

《安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サ

ロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。》とあり

ますから、墓場へ行き、墓に入り、イエスのご遺体を手厚く保護

する思いであったことがうかがえます。

しかし、ヨハネの描くマグダラのマリアには、墓に入ることを

敬遠する様子が描かれています。

マグダラのマリアについて、マルコ16章9節では、《〔イエス

は週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御

自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い

出していただいた婦人である。》と紹介されています。

マグダラのマリアにおいては、悪霊に苦しめられる病を経験し

ており、ひとたびは癒されたものの、再び苦しめられている状態

を「七つの悪霊」という言葉が表しています。

ヨハネの描写によれば、 マグダラのマリアの悪霊によるトラウ

マというものがうかがえる心理的描写とも受け取れます。

最後に、 マグダラのマリアの言葉に注目してまいりましょう。

弟子たちが帰って行ったあと、11節以下、

《マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて

墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着

た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に

座っていた。》

とあります。 マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていたので

す。すると、二人の天使を目撃します。13節、

《天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリ

アは言った。

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わ

たしには分かりません。」》

とマグダラのマリアは言葉を発しています。

そして、 マグダラのマリアは、 イエスについて、 「わたしの主」

と言ったのです。

ここから出来事は展開してまいります。14節以下、

《こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるの

が見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜し

ているのか。」

マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去っ

たのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あ

の方を引き取ります。」》

と言葉が交わされます。

天使たちと、そして復活のキリストが、重ねて「なぜ泣いてい

るのか」と問いかけます。

マグダラのマリアは、 「あなたがあの方を運び去ったのでした

ら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き

取ります。」と答えます。

「わたしが、あの方を引き取ります」と答えたのです。

「わたしの主」と呼び、「わたしが引き取る」と、天使たちや園

丁とおぼしき人に迫るマグダラのマリアの言葉には、大切なもの

を喪失した者の叫びが聴こえます。

復活のキリストは、「だれを捜しているのか」とも問うておら

れます。

復活のキリストが発せられた、この「だれを捜しているのか」

との言葉は、ここだけに限られるものではありません。

ヨハネ福音書が伝えるイエスの受難の始まりでも語られた、 印

象深い言葉でありました。

ヨハネ18章3節以下、《それでユダは、一隊の兵士と、祭司長

たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そ

こにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエス

は御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、

「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエス

だ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエス

を裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わた

しである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねにな

ると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは

言われた。「『わたしである』と言ったではないか。》とありま

した。

「だれを捜しているのか」と問われるキリストを、マグダラの

マリアは園丁だと思っていました。

16節、《イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向い

て、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味で

ある。》

復活のキリストが、今度は「婦人よ」ではなく、「マリア」と

名前で呼びかけられました。

その時、マグダラのマリアの心が開かれ、すべてを理解したの

です。名を呼ばれたことにより、そこにおられる方が復活のキリ

ストであると知らされたのです。

マグダラのマリアがしたように、 死者の中に 「わたしのイエス」

を探しても見つかりません。

「キリストのわたし」であるがゆえに、キリストご自身によって

マグダラのマリアが探し出された出来事であったのです。

18節、 《マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わ

たしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝え

た。》

マグダラのマリアの、第2の証言です。

こうして、マグダラのマリアは、復活のキリストを証言する者

とされたのです。

「わたしは主を見ました」

このキリスト者としての証言は、私たちが互いにキリストを信

じる者として向き合う時に実現します。

キリストを信じる者として出かけて行くときに証しされます。

キリストは墓の闇を破り、光の中へ躍り出てくださいました。

復活の朝、かの弟子たちもまた、キリストの墓に入り、その墓

から出た時に、復活のキリストがご覧になったのと同じ世界を目

撃したはずでありましたが、彼らの心はまだ闇のままでありまし

た。

キリストは墓の闇を破り、光の中へ躍り出てくださいました。

キリストは十字架の上にはおられません。

再び立ち上がってくださったのです。

戦争、病い、貧困という闇が世界を覆っている状況の中で、キ

リストは世界の病を知り、痛みを負ってくださいました。

今キリストと共に、忍耐と勇気と希望をもって、この年を出か

けてまいりましょう。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがた

に満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてく

ださいます。」