2025.4.27説教「信じる幸せ」

復活節第2主日

「信じる幸せ」

 

ヨハネ20章19-31

◆イエス、弟子たちに現れる

 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 ◆イエスとトマス

 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

 20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 ◆本書の目的

 20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。

 20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


 「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日は、ヨハネによる福音書から、キリストが復活されたあとの弟子たちの様子を見てまいります。

 本日の聖書箇所は、ヨハネ福音書本来の巻末に当たる、結びの言葉でありましたが、のちに教会によって21章の部分が補足されています。

 本来の結語は、ヨハネ20章29節、

《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」》

となっています。

 このように、「信じること」しかも「見ないのに信じること」がヨハネ福音書の目指すところとされています。

 

 よって、先週のキリストが復活された場面では、20章8節、

《それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。》

とあり、「見て、信じた」弟子たちの姿が伝えられています。

 聖書学者たちは様々に考察した結果、一足飛びに「弟子たちは空っぽの墓を見たことで、キリストの復活を信じた」としますが、 しかしながら、この弟子たちの「見て、信じた」姿は、曖昧さを多分に含んでいます。

 事実、20章8節までで報告されていることは、

20章2節で、

《「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」》

と弟子たちに告げたマグダラのマリアの第1の証言と、

6節での、

《続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。》

という、ペトロたちが墓の中を確認した結果だけでありました。

 いったい「空っぽの墓」を見ただけで、キリストの復活を信じることが出来る者がどれほどいるでしょうか。

 このことについて、マタイによる福音書が興味深いいきさつを書いています。マタイ27章62節以下、

《明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。》

とありました。

 また、復活の後日談として、マタイ28章11節以下には、

《婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。》

とマタイによる福音書では報告されています。

 このように、マタイ福音書には、キリストが登場した緊張感と復活された危機感が保存されています。

 

 これに対し、ヨハネ福音書では、非常に冷静にキリストの復活の出来事を伝えているように思います。

ですから、20章8節が伝える、弟子たちが「見て、信じた」ものは、マグダラのマリアの「墓が空っぽです」という報告が信じられず、墓を確かめて初めて信じたとも受け取れるものです。

 なぜならば、本日の20章29節の、

《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」》

とあるように、復活のキリストが弟子たちに求めておられるのは、「見て、信じる」ことから「見ないのに信じる」者となることであるからです。

「信じる」ということを考える上で、少し日常的なところから振り返ってみましょう。

 子育てについての相談がありました。そろそろ思春期となる年上の子どもに関する相談でした。

 聴くと、コンビニに出入りする「良くない友だち」との付き合いに流されているのではないか?との悩みでありました。

 物事の善悪を、どのように子どもに教えたらいいのか?

 父親は、子どもに、その友だちとの付き合いをしないように告げました。

 母親は、財布をもって遊びに行かないように言い聞かせ、また、そのような友だちは本当の友だちではないとまで言いました。

両親は、子どもを護ろうとするあまりに、様々な制限を課したのでした。

相談を聴き進めて行きますと、コンビニに出入りしている子どもたちという存在は、相談者の子ども自身にとっては大好きな仲間であり、失いたくない友だちであったようです。

両親は、我が子の気持ちを受け取る前に、付き合いを禁止したり、本当の友だちではないと言ってしまったり、子どもの気持ちとの隔たりを大きくするような対応であったように感じました。

相談を聴きながら、私の初めての子育てを思い起こしました。子どもを護ろうとする思いが強く、制限してばかりいました。私自身も、この両親と同じことをしていたなと反省しています。

母親が、どうしたらいいでしょうか?何をしたらいいでしょうか?と途方に暮れておられましたから、まだしていないこと、してあげていないことがありますねと申し上げ、「我が子を信じる」ということについて語り合いました。

「我が子を信じる」とは、どういうことでしょうか。

子どもを信用できる人間に育てることでしょうか。

正しいことを判断できる子だと確認できることでしょうか。

信用できる人間に育ったら、子どもを信じてあげようとでも言うのでしょうか。

子どもの良い育ち方が、親に「子どもを信じる」という気持ちを起こしてくれるのでしょうか。

むしろ、親が子どもを信じている姿を通して、子どもが正しいことを判断し、正しさに留まろうとする気持ちが育つのではないでしょうか。

たとえ子どもが失敗したとしても、それを受け止めることは親の務めでありましょう。そのようにして子は育つのですから。

子育ての経験や子どもの育ちの実例を挙げながら、このように語り合ったのでした。

母親は、子どもの気持ちを尊重しなかったこと、受け止めもしなかったことを振り返りつつ、何よりも「子どもを信じていない」自分自身に気づかれました。

そして、子どもを信じてみようと思いますと決意されました。

親の愛の真実は、神の愛の映しでありましょう。キリストの十字架は親としての神の愛の真実の姿でありました。

私たちが信仰深いわけではありませんでした。

私たちは神が私たちを信頼するに足る何物を持ち合わせてはいません。

私たちの良い生き方が、神に私たちへの愛を呼び起こしたわけではありません。

むしろ、神から私たちへの惜しみない愛が、私たちの生き方を良いものへと変えようとしています。

そして、私たちの、悔い改めても悔い改めても、改まらない生き様のゆえに、神はキリストをもって十字架を背負われました。

こうして、私たちは罪ある者であるにもかかわらず愛され、罪を抱えたままに赦され、そして、なおも神は人間に希望をもっておられます。これは、神が神であるがゆえの出来事であります。

 

さて、本日のヨハネ福音書20章19節を見ますと、

《その日、すなわち週の初めの日の夕方》

と始まります。

 キリストの復活は、

20章1節、

《週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに》

起こった出来事でありました。

 つまり、今日の箇所は、キリストが復活された日の夕方の出来事であったと言うことです。

 ヨハネ福音書が伝える、復活のキリストの第一声は、

19節、

《その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。》

とあるように、「あなたがたに平和があるように」でありました。

 平和というメッセージには、神と人間の平和、国と国の平和、人と人との平和、自分自身との平和が考えられています。

 復活のキリストは、弟子たちが集まっている場の真ん中に立たれました。

キリストは、私たちの罪のために倒されたのではありません。私たち人間の罪が、キリストを倒したのです。にもかかわらず、復活のキリストは、私たちへの愛のゆえに立ち上がられました。

 

《弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた

とあります。

 キリストの十字架の出来事から三日目、弟子たちはユダヤ人を恐れていました。

それは、家の戸に鍵をかけるほどの恐れでした。

 十字架のあとのユダヤ人たちの様子を見てもいないのに、弟子たちはユダヤ人を恐れていたのです。

何を恐れていたのでしょうか?

自分たちも負わされるべき十字架を恐れていたのでしょうか。

イエスを失ってしまった事実を恐れていたのでしょうか。

けれども、復活のキリストは弟子たちに現れました。20節、

《そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。》

とある通りです。弟子たちは、主を見て、喜んでいます。

 キリストと出会うという出来事は、クリスチャンにとっては素晴らしい体験です。

にもかかわらず、福音書には弟子たちがイエスと出会って喜んでいる姿はほとんど描かれていません。

終始、暗いトーン、暗いムードでイエスと弟子たちとの関係が綴られています。

 しかし、この20節では、ヨハネ福音書は弟子たちの喜びを、シンプルですが大胆に伝えています。

けれども、やはり「見て、喜ぶ」姿ではあるのです。

 

 神は、このままの弟子たちを派遣されます。

20章21節、

《イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。》

と祝福されています。

復活のキリストが、弟子たちを派遣されます。

キリストは、弟子たちを信じておられる。

弟子たちによる未来に希望をもっておられる。

しかも、聖霊までもが彼らを後押ししてくださるのです。

 この、復活のキリストが現れた1度目の場に、弟子のトマスは居合わせませんでした。

 トマスはどこにいたのでしょうか?

 そして彼は何を見たのでしょうか?

 それは福音書には書かれていません。

 

25節、

《そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」》

とあるように、トマスは、他の弟子たちの「わたしたちは主を見た」という証言を信じることは出来ませんでした。

 他者の証言を信じることが出来なかったのはトマスだけではありません。

ペトロやヨハネもまた、マグダラのマリアが語った「墓が空っぽでした」との証言を信じられなかったのですから。

 

 復活のキリストは、トマスのためにでもあろうか、弟子たちに2度目の顕現をなさいます。

27節、

《それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」》

とあります。

 復活のキリストからの呼びかけに、トマスは答えます。

28節、

《トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。》

とあります。

 キリストが復活された朝、マグダラのマリアも墓に現れた天使との対話で発していた言葉を思い起こします。

13節にありました。

《天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」》

と。

ここでマグダラのマリアは「わたしの主」と言ったのです。

「わたしの主が」と訴えるマグダラのマリア、

「わたしたちは主を見た」と証言する弟子たち、そして、

「わたしの主」と告白するトマス。

「わたしの主、わたしの神よ」と告白するトマスに対し、復活のキリストはなおも呼びかけておられます。

29節、

《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」》

と。

(「わたしの主」とは、言い換えればプライベートな告白でありましょう。これに対し、「主のわたし」という告白はパブリック・公の証言とされるのではないでしょうか。

 また、見るという体験は、人間主体の行為でしょうけれども、見ないのに信じるという経験は、見られている、知られているという人間が客体とされる神の出来事のように思います。)

  いにしえより神は呼びかけておられます。

イザヤ43章1節、

《あなたはわたしのもの》

と。

 民衆も応えて続けてまいりました。

イザヤ44章5節、

《わたしは主のもの》

と。

 神は今なお私たちを祝福してくださいます。

イザヤ43章10節、

《わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。》

 

復活のキリストを「わたしの主」としたいのではありません。

私自身を、私たち自身を「主のわたし」とされたいのです。

この世界を「主のもの」としていただきたいのです。

そこに、わたしの希望、わたしたちの希望、世界の希望があるのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」


礼拝の様子はこちらでご覧いただけます。