2025.05.18説教「鮮やかな心」

復活後第5主日

「鮮やかな心」

 

ヨハネ福音書13章31-35

13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

 13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。

 13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

 13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。

 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日の福音書の御言葉は、イエスの12弟子の一人であるユダの裏切りの場面から始まります。

十字架への道行きの始まりに、イエスは「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃいました。

この御言葉を受けて、説教題を「鮮やかな心」と致しました。

 

 栄光とは何か。

 神は示されているのに私たちには見えない。

しかしそれは、鮮やかに神の御心をあらわしているということを、今日の御言葉である13章31節から聴いてまいりましょう。

 

 30年ほど前、私の初任地でありました教会が、近隣の2つの教会と統合されることになり、教会名を新しくすることになりました。

それまでは、それぞれの土地の名前が付けられていました。

いくつもの候補が挙げられ、最後の2つにまで絞られた候補は、いずみ教会と栄光教会でありました。

すでに次の教会へと転任していた私は、ドキドキしながら事の成り行きを見守っていました。

個人的には、「栄光」という言葉は派手なイメージを感じますから、できれば柔らかな印象がある「いずみ」になるといいなと思っていましたし、地方教会の穏やかな信徒の方々ですから、「栄光」を選ぶとも思っていませんでした。

ところが、結果は「栄光」を選ばれ、栄光教会となったのです。

その時から、聖書で言う「栄光」とは、どのようなものであるのかを絶えず心に留めるようになりました。

 

 本日の御言葉は、ユダの裏切り、すなわちイエスの十字架への道行きの始まりについて書かれています。

 

 注意深く本日の直前の27節を見ますと、イエスはユダに対して、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と、行動を促しておられます。

逮捕に至る口火を切ったのはイエスでした。

すべきことを直ちにしなさいと、十字架への流れの主導権をイエスが握っておられます。

こうしてイエスは、31節「今や、人の子は栄光を受けた」と宣言されました。

イエスの十字架による苦しみが、どうして栄光なのか。

謎は深まるばかりです。

 ヨハネによる福音書が伝えるイエスの十字架には、まだまだヨハネ固有のメッセージがあります。

 18章での、イエスの逮捕の場面では、8節で「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」とイエスを捕えに来た者たちに指示をしておられます。

他の福音書では、弟子たちは逃げ去ったと伝えますが、ヨハネ福音書は、ここでもイエスが主導権を持っておられます。

 極めつけは十字架上でのイエスの行動です。

他の福音書では、最後の晩餐の折りに、神の国が来るまではブドウから作ったものを飲まないと告げ、十字架上ではブドウ酒を受けておられません。

ところが、ヨハネ福音書では、十字架で息を引き取る直前にブドウ酒を受け、「成し遂げられた」と仰いました。

 

どういうことか。

今年の四旬節にもお話した通り、ぶどう酒を飲まないということは神への誓い·誓願であります。

それゆえ、次にぶどう酒を飲む時は願いが成就した満願の時であるのです。

ヨハネ福音書が語るイエスの十字架は、まさに満願の時、御心の成就の時とされたのです。

それは神の国の到来であり、御子の姿に最も鮮やかに神の栄光すなわち神の心が顕れた瞬間でありました。

ヨハネにとって十字架は、神の栄光の顕れであったのです。

 

神の見えざる御心を知るために、まず身近なエピソードをご紹介します。

日本福音ルーテル教会の宣教百年記念の折り、記念事業として出版された「教会はキリストの身体」という、エフェソ書の学びのテキストの表紙に両腕のないキリスト像の写真が使われておりました。

両腕のないキリスト像が、三鷹の日本ルーテル神学校に保存されています。

もう40年も前になりますが、私が神学校におりました時、突如この像と遭遇しました。

といいますのは、神学校の正面玄関を入りますと、ロビーから2階の研究室のフロアーへと続く階段がございます。

教授以外は使うことの少ない、ひと気のない階段で、上り切ったところに薄暗い無駄に思える空間があります。

その隅に放置されていたのが、このキリスト像でありました。

高さ1メートル足らずの像は、両腕が取れた状態で、台座も誰が踏んだのか壊れており、全体に埃が厚く積もり、像とは言え、見る者の胸を締め付けるような見すぼらしさがありました。

その像の前を通り過ぎる度にやり切れない思いが起こりますので、ある日思い切ってすでに召された石居正己先生に、キリスト像が放置されているわけを聞きに行ったのです。

神学校ともあろうところが、どうしてキリスト像を放置しているのですか?前を通るたびに、いつも切ない思いになります、と。

すると、石居先生はお答えになられました。

あの像は中世の頃に造られたもので、歴史的にも価値のあるものです、と。

私が、それなら尚更大切に保存すべきではないですか?と言うと、先生が問いかけてこられました。

「キリストはガラスのケースに入れられるために地上に来られたのか?

貧しい家畜小屋で生まれたのではありませんか?

埃の積もった、この世の片隅に来られたのではなかったか?

そして、十字架上に捨てられたのではなかったか。

だから、像はあれでいいのです。

棄てられたような状態のあのままでいいのです。

忘れられたように置かれていることが一番ふさわしいのです、と。」

まいりました。その通りです。

ところが、この像。33年前の宣教百年事業で注目され、台座は修理され、埃は拭われ、あろうことか綺麗にニスまで塗られて艶々に変貌をとげてしまいました。

これもまた、キリストは受容されたもう。

 

もう一つ、両腕のないキリスト像にまつわるエピソードをご紹介します。

実は世界中に両腕のないキリスト像はあるのです。

理由は戦争の被害によるもので、かつては教会に安置されていたキリスト像ですが、戦禍によって教会の屋根が焼け落ちた際、人々へと広げられていたであろう両腕が肩から喪われ、胴体の部分だけが取り残された、と伝えられます。

両腕のないキリスト像の失われた両腕ですが、皆さんはどのようなスタイルを想像なさいますか?

ある村で、戦争の傷に意気消沈する男性たちに代わって、女性たちが村を復興すべく、立ち上がりました。

手始めに村の中心にある教会から復興しようということになりました。

讃美歌を口ずさみつつ、がれきの山を片付けていると、両腕のないキリスト像が埋もれていたのです。

そのお姿は忍びなく、隣村に有名な彫刻家がいるということで、女性たちはキリスト像を担ぎ、彫刻家のもとへと向かいました。

村の復興の事情を伝え、キリスト像の修復を依頼したところ、なんと!彫刻家は傷んだ像の修復を断ったというのです。

彫刻家は女性たちに語りかけました。

「あなたがたには、キリスト像の失われた両腕が見えませんか?私には見えている。だから修復する必要がないのだ」と。

沈黙する女性たちに向かって、さらに彫刻家は語りかけます。

「あなたがたこそ、キリストの失われた両腕なのです」と。

このエピソードが広く知られることにより、両腕を喪ったキリスト像は多数あれど、それを修復しようとする人はいないのです。

貧しくお生まれになったイエス。

十字架の上で息を引き取られた主。

この世の輝きはまったくありませんが、人を救う神の心は鮮やかに現れています。

さらに、この神の心は、私たちをして証しされるのです。

 

 

 本日も私たちは聖餐式を通してぶどう酒にあずかります。

 これは主の満願、御心の成就、神の心のあらわれです。

 私たちこそが御心をあらわす者であり、キリストの失われた両腕であるのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」