2025.5.25説教「木を植える」
復活節第6主日
「木を植える」
黙示録21章10節-22章5
◆新しいエルサレム
21:9 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」
21:10 この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。
21:11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
21:15 わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。
21:16 この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
21:17 また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。
21:18 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。
21:19 都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、
21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
21:22 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。
21:23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。
21:24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。
21:25 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。
21:27 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
22:1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
22:3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
22:5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
「私たちの神と主イエス·キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
黙示録と聞けば、誰もが最期の審判というイメージをいだき、世界の終わりを想像します。
しかしながら、黙示録の最終章は、すべての終わりではなく、新しい世界の始まりが描かれているのです。つまり、神による世界の再創造ということです。
神には、「もう一度」「再び」という出来事があること、そのチャンスがあることを、本日の御言葉から聴いてまいります。
福音書には、次のような、イエスと弟子たちとの問答が記されています。マタイによる福音書18章21節以下、
《そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」》
イエスによれば、赦しは「再び」どころか、「何回でも」という領域に達しています。
引用しました福音書の御言葉には、「帳消し」という言葉が使われておりましたが、「帳消し」とは言え、無かったことにはなりませんでした。
キリスト教の「洗礼」や「罪の赦し」というものもまた、これと同様でありましょう。
「洗礼」を受けたからと言って、神に対する不信や背信がなかったことにはなりません。
むしろ、神に対する罪を犯した者として、神は「再び」愛してくださるのです。
ここに、無かったことにする以上の、深い愛が示されます。
私たちは、信用や信頼が重要とされる社会の中で、真面目に生きれば真面目に生きるほど、裏切られる悲しみを負って来たのではないでしょうか。
あるいはまた、やむを得ず人を裏切らざるを得ないことがあったかも知れません。
いずれの場合においても、そこに「再び」はあったでしょうか。
「再び」という体験をした者は幸いです。
裏切られたにもかかわらず、再び信頼すること。
裏切ったにも関わらず、再び信頼されること。
そして、どちらの立場であったとしても、「再び」を経験するたびに、優しくなれたのではないでしょうか。
それゆえ、神における「再び」に心が捕らえられるのです。
旧約聖書に「ホセア書」という書簡があります。
預言者ホセアの記録です。ホセアは、まだイスラエル王国·ユダ王国が存在していた末期の時代、紀元前700年代に活動した預言者でした。
神を裏切るイスラエルを映した、不貞の妻を受け入れ、父の違う三人の子を引き受けて行く様は、神そのものの姿のように思えます。
ついには、イスラエルに神の罰が下るのですが、それは赦しに至るための道のりでありました。
さて、本日の黙示録の御言葉から、神の「再び」を聴いてまいりましょう。
黙示録には、いくつかの「キーワード」がありますから、これまでの「おさらい」となるところもありますが、改めて聴いてまいります。
神の「再び」という憐れみ、再創造の恵み、新しい神の国に受け入れていただくためには、一つの条件が挙げられています。
黙示録21章27節、
《しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。》
「小羊の命の書」という「救いの台帳」があるというのです。
「小羊」とは「キリスト」のことですから、キリストが持っておられる「命の書」に名前があるかどうかが問われています。
「命の書」について、聖書は多くを語ってはいません。
信仰者として、察しなければなりませんし、考えなければなりません。
幾つか取り上げますと、
イザヤ書4章3節、
《そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。》
この箇所は、以前の「口語訳聖書」では、「生命の書」と翻訳されておりましたが、今の新共同訳聖書では「命を得る者として書き記されている」となっています。
詩編69編29節、
《命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べて/そこに書き記さないでください。》
フィリピの信徒への手紙4章3節、
《二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。》
黙示録3章5節、
《わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。》
黙示録20章15節、
《その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。》
などが挙げられます。
では、この「命の書」とは、どこにあるのでしょうか。
すでに思い起こされた方もあるかと思いますが、それは、
イザヤ書49章14節以下、
《シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。》
「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
手のひらに刻まれた私の名とは、キリスト者にとっては、キリストの手のひらに残された十字架の釘跡に違いない、ということであります。
こうして、キリストを信仰する者は、命の書に名を刻まれた者とされていることを、私は信じます。
黙示録22章3節以下を見ますと、
《もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。》
とあります。
今度は、「神の僕」の額には、「神の名」が記されていると書かれています。
「神の名」が記されると言うのは、私たちが洗礼を受ける際、「新しいしるし」として「司式者は親指で受洗者の額に十字をしるす」という場面があります。
そして、「聖霊によって刻印された神の子であるあなたに、キリストの十字架をしるします」と宣言するのです。
この、「聖霊によって額に記された十字架の刻印」こそ、「神の名」であると言えるでしょう。
では、「命の書」に名が記され、額に「神の名」が記された者たちに用意された新しい神の国とは、どのようなものでありましょうか。
21章10節、
《この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。》
「神の栄光に輝く」とは、「神の心で溢れている」状態と言うものです。
それは、22節、
《わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。》
と描かれています。
「光の中を歩く世界」、それは、イザヤが呼びかけた平和が実現する世界のようでもあります。
イザヤ書2章4節以下、
《主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。》
でありました。
また、「そこには夜がないからである」とありますが、これはヨハネ福音書における十字架の出来事の始まりを想起させます。
13章27節、
《ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。》
そして、30節、
《ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。》
とありました。
キリストの十字架によって神の心は成就され、夜明けが宣言されています。
新しい神の国の中央には、川が流れていると言います。
22章1節以下、
《天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。》
かつて、イスラエルが滅び、捕虜の民が解放された紀元前500年代に活動した預言者ゼカリヤの言葉、ゼカリヤ14章7節以下、
《しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。》
との言葉は、ユダヤの復興のみならず、新しい神の国のイメージとなっています。
「命の水」についての言及には惹かれるものがあります。
黙示録21章6節、
《また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。》
22章17節、
《渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。》
イエスの人生を例えるならば、それは、川の流れのようでありました。
川は低み低みへと流れます。
町と町の間を通られたイエスと弟子たちの歩みは、町と町の間の低みを流れる川のようでありました。
また、そこは、町から排除された人々の住むところでもありました。
社会から、うとんじられた人々にとって、イエス一行との交流は、命の水を得たような瑞々しさがあったことでしょう。
そして、イエスの人生と言う低みを流れる川の行きつくところは十字架でありました。
人を潤す川の流れについて、イザヤは語ります。
35章6節、
《そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。》
33章21節、
《まことに、そこにこそ/主の威光は我らのために現れる。そこには多くの川、幅広い流れがある。櫓をこぐ舟はそこを通らず/威容を誇る船もそこを過ぎることはない。》
その流れは人が神にさかのぼるための流れではなく、すべてを永遠の命へと押し出す、神の愛と慈しみという怒涛でありました。
新しい神の国を流れる川の両岸には、「命の木」の並木が設けられます。
この「命の木」とは、創世記のエデンの園に登場する、あの「命の木」でもあります。
創世記2章9節、
《主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。》
2章16節以下、
《主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」》
創世記ではあれほどまでに、アダムとエバをエデンの園から追い遣るほどに、神が守り抜かれた「善悪の知識の木」と「命の木」でありましたが、黙示録の新しい神の国に迎える人々には惜しみなくふるまわれています。
それは、「永遠の命」を人々が受けるためでありました。
こうして、新しい神の国で再び流れ出す川は、救われるべき魂を永遠の命へと押し出す流れとされるのです。
創世記で「木を植える」ことから始められた神の創造の業でありましたが、黙示録ではさらに「木を植える」ことによって、再創造がなされています。
「木を植える」ところには、明日への希望があり、将来の夢があります。それは、神が人間に対し、希望をもっておられるということであり、私たちに夢をいだいておられるということでありましょう。
私たち自身が希望を持つこと以上に神の希望とされることを、私たちが夢を持つこと以上に神が私たちの未来に夢をいだいてくださることを尊く思う心に支えられて、生かされてまいりましょう。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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