2025.06.01説教「祝福を受ける」
主の昇天
「祝福を受ける」
ルカによる福音書24章44-53
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は昇天主日、十字架と復活の後の出来事であるキリストの昇天を記念する礼拝です。
本日お読みしましたルカ福音書によれば、キリストは復活後、40日目に昇天されたと伝えられています。
そして、10日後、すなわち復活から50日目に聖霊降臨の出来事が起こることになります。
とは言え、すべての福音書が主の昇天を記録しているわけではありません。
イエスのご生涯を記録した福音書の原典はマルコによる福音書です。世に出されたのは紀元70年頃のことでした。
マルコによれば16章7節で、復活の主はガリラヤへ行かれることとなっています。
そして16章19節、弟子たちとの再会後、キリストは昇天されたと記録されています。
マタイによる福音書には、主の昇天の記述はありませんが、復活のキリストによる「ガリラヤで会おう」との言葉により、福音書の最後の場面はガリラヤの山の上とされています。
ヨハネによる福音書も直接的な主の昇天の記録はありませんが、20章17節の復活の朝「まだ父のもとへ上っていない」と、昇天を暗示させる言葉が述べられています。
そして、福音書の補足的部分ではありますが、最後の舞台はガリラヤ湖畔となっています。
このように、復活されたキリストとの再会がガリラヤで約束されているにもかかわらず、ルカの舞台はそうではないのです。
本日のルカ24章50節を見ますと、キリストご自身が弟子たちをべタニアへ連れて行き、彼らの目前で主の昇天が起こったと伝えています。
本日はルカでありますから、ルカの視点で主の昇天を聴いてまいります。
ルカによる主の昇天の場面で最も印象的なことは、24章52節にある弟子たちが「大喜び」している姿であります。
どの福音書を見ても、弟子たちが大喜びする姿を描いているのは、ここだけです。
弟子たちは受難以前のイエスとの日々の中で、なぜ大喜びできなかったのでしょうか。
そして、主の昇天に際し、何が彼らを大喜びさせたのでしょうか。
また、キリストを愛する私たちは、大喜びする者でありましょうか。
確かに私たちは、信仰者としてそれぞれに、キリストを知り、福音と出会えた喜びを体験し、洗礼に授かって大喜び致しました。
そして今、何を喜ぶ者でありましょうか。
弟子たちがイエスと出会った以後も、心底喜べなかった心境として、マタイ福音書の最後の場面を挙げることができます。
それはマタイ28章16-17節、
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」
そうなのです。弟子たちがイエスに対する全幅の信頼を持って大喜びしたくてもできなかったわけは、それぞれの思いの内に巣くう「疑い」があったからでしょう。
しかしマタイ福音書は、弟子たちの抱える疑いをそのままに、疑う心もろとも派遣して行くキリストを伝えています。
父と子と聖霊という主の御名の前に、人の疑いなど何物でもない、ということです。
人が信仰的であるかどうかは問われていません。
キリストが救い主であることが中心的事柄であり、すべては神が人間を救おうと欲しておられることにかかっているからです。
ルカ福音書にあっても弟子たちの心情は同様であったことでしょう。
にもかかわらず、主の昇天の出来事は、弟子たちそれぞれの葛藤を吹き飛ばし、心底喜び、抑え難く大喜びしてしまう事態をもたらしたのです。
主の昇天、それはどのようなものであったのでしょうか。
ルカによれば、イエスの受難の際に、弟子たちは逃げ出しています。
そして、復活のキリストとの再会の場面では、恐れおののくばかりでありました。
主の昇天に際し、いよいよ永遠の別れになるかもしれないというその時、弟子たちは神の元へ昇りゆくキリストを伏し拝んだ後、大喜びへと移されます。
そして、イエスの受難によって彼らが最も恐れていたエルサレム市中へと向かい、民衆の中心である神殿へと参り、神を褒め称えたのでした。
主の昇天という出来事の何が弟子たちを奮起させたのか。
彼らがイエスと出会って以来の疑いは、このお方は本当に神の子なのだろうか、ということ。
本当に神の元から来られたのだろうか、ということであったことでしょう。
これは、私たちもまた免れない疑いの誘惑であります。
ところが、弟子たちの目前で天に上げられるという現象は、彼らにとって単に「キリストが行くところ」という意味ではありません。
キリストが「来たところに帰る」という意味となるのです。
弟子たちは、キリストが帰るところを目撃することによって、イエスが来られたこところを知ったのであり、神の元から来られた方·まことの神の子であったという保証をいただいたのです。
主の昇天により、弟子たちがイエスと出会ったことの意義が輝き始めました。
こうして弟子たちは大喜びしつつ、直ちにエルサレムに返り、神殿へと向かったのでした。
そこには最早、人々への怖れも、自分の命だけは守ろうとする保身も、キリストへの疑いもありませんでした。
ルカ24章48節、
「あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」
怖れを取り払われ、人々の中へと出かけて行く弟子たちの姿をより鮮明に描くとするならば、場所はガリラヤではなくエルサレムがふさわしいと、ルカが福音書の編集に際して判断したのは当然のことだったように思われます。
私たちはどうでしょうか。
それぞれに与えられたキリストとの出会いの思い出という「これまで」にとらわれてはいないでしょうか。
しかしながら、信仰という出来事は、キリストが向かわれるところを知らされる「これから」のことでもあり、さらに確信を与えられ、私たちを大喜びせずにはいられない日々へと招くものではないでしょうか。
最後に、主の昇天の場面の記述に注目してみましょう。
24章50節、
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」
主の昇天に際し、キリストの証人とされる弟子たち。キリストは弟子たちの前に立ち、彼らと向き合い、手を挙げて祝福されます。そして、祝福しつつ、彼らを離れ、神の元へと上げられて行くのです。
人との別れの際、皆さんはどこまで見送られておられますか。玄関先か、さらに門までか。あるいは相手の姿が見えなくなるまでか。それぞれのスタイルによるところでありましょう。
弟子たちもまた、上げられて行くキリストを拝みながら見送ったことでしょう。
けれども、そのお姿が自分たちから見えなくなるや否や、踵を返して神殿へと馳せ参じたことと思われます。
だがキリストは、彼らと向き合い、昇天してなお彼らを見送り、祝福のために挙げられた主の手は下ろされてはいません。
弟子たちからキリストのお姿が見えなくなろうとも、キリストからは彼らの後姿が見送られていることでしょう。
私たちが礼拝のたびごとに与る祝福は、今もなお主が私たちと向き合い、祝福のために手を挙げておられることの写しでありましょう。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
.jpeg)