2025.6.15説教「見えない神」

三位一体

「見えない神」

 

マタイ28章16-20(聖書日課より変更)

◆弟子たちを派遣する

 28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

 28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日は、三位一体主日、父と子と聖霊と呼ばれる聖書の神を記念します。

 見えない神であろうとも、聖書ではその名が記されています。

 教会の礼拝では「父と子と聖霊の神」を信仰告白していますから、キリスト教会としての信条・信仰告白を記念する日と言っても過言ではないでしょう。

 そして、「父と子と聖霊」と呼ばれる神は、どれ一つ欠けてはならないキリスト教信仰の基礎であり、どれか一つでもおろそかにする宗教団体に対して、キリスト教の世界では異端と断じています。

 このようなキリスト教の正統派と異端の対立や思想の混乱は中世に至るまで激しく論争されましたし、現代においてもなおキリスト教の異端的立場は存在します。

 これは、福音書においてはっきりとした教えとして示されていないゆえの、後世の混乱と言えましょう。

 そこで、本日のマタイによる福音書28章19節を見ますと、

《だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け》なさい、とあります。

 4つの福音書中、ここだけにしか「父と子と聖霊の名によって」という教えは書かれてはいないのです。

 また、伝道者パウロの多くの手紙の中でも、「父と子と聖霊」の神による祝福は、コリントの信徒への手紙Ⅱ・13章13節でしか使われていない結びの祝福です。

《主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。》

というものです。

 

 本日の福音書とⅡコリント書から「三位一体の神の名」を確かめたところで、旧約聖書からも見てまいります。

 創世記1章では、言うまでもなく天地創造物語が書かれています。

 聖書を手に取りますと、聖書として納められ、綴じられている順番で書かれたかのような印象を持つ方もおられることと思いますが、旧約聖書も新約聖書も書かれた年代順に収められているわけではありません。

 でも創世記から書き始められたのでしょう?とおっしゃるかもしれませんが、そうではないのです。

 旧約聖書時代の信仰はユダヤ教というわけでもありません。

ユダヤ教は紀元前500年頃に整えられた聖書信仰ですから、それよりも1000年以上古くから信じられていた神信仰を、ひとまず聖書信仰と表現することにします。

聖書の故事に聴けば、アブラハムに神信仰の個人的な芽生えを見ることができますが、イスラエル共同体としての信仰の発露はモーセの時代でありましょう。

 モーセと神の出会いは荒れ野です。

燃えているのに燃え尽きない不思議な柴の間から、神はモーセに呼びかけられ、エジプトに寄留していた民の導き手として立てられました。

その場面で、モーセは神の名を問うています。

出エジプト記3章13節、

《モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。》

と神ご自身のお告げとして、「わたしはある」という名、また、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という名が示されています。

 モーセと出会われた神により、イスラエル共同体はエジプトから解放され、エジプトを脱出し、カナンの地・パレスチナへと向かうのです。

それゆえ、出エジプト記が聖書信仰の出発点であったと言えるでしょう。

このイスラエル共同体をエジプトから解放してくださった神とはいかなるお方かという求めに応じて、創世記の登場へとつながったと考えられます。

 

「神の霊」は、創世記1章から登場します。1章2節の、

《地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。》

とあり、創造以前から混沌を包み込むものとして神の霊があったことを伝えています。

神の霊は初めから神と共にあり、ということです。

 また、創世記2章7節では、

《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。》

と、人の創造の場面で神の霊は命の息として働きます。

さらに、3章8節では、

《その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。》

と、神と共に風として禁断の木の実を食べて恥と恐れを知ったアダムとエバを訪れています。

 これらは、神と共に働く聖霊を伝えています。

 ところで、話は少し余談となりますが、天地創造は神が6日間働かれて世界をお造りになり、7日目に休まれたと伝えます。

 このユニークなメッセージは、聖書や教会に触れたことがある方の多くが知っていることでありましょう。

 では、天地創造の6日間、1日ごとに神は何をお造りになったのかと問われたならば、どうでしょう?

 私も答えられません。

ただ漠然と天地創造のイメージをいだいておりました。

7日目の休息は忘れないのですけどね。

 1日目に、光を造り、昼と夜とを分けられた。

2日目に、大空を造り、水を上と下に分けられた。大空を天と呼ばれた。

3日目に、下の水を集められ、海と大地に分けられた。大地には草と木を芽生えさせられた。

4日目に、昼には大きな光である太陽を置き、夜には小さな光である月を置いて収めさせ、季節を造られた。

5日目に、大空には鳥を、海にはうごめくものを造られた。

6日目に、大地に生き物を生み出し、これを治めるために人を造られた。神は創造と共に「良い」ということを造られた。

7日目に、神は休まれ、その日を祝福し、聖別すなわちご自分のものとされた。

というのが、神による天地創造の1週間であります。

 

 さて、本日の主題に戻りまして、三位一体の神の働きはどれ一つ欠けてはならないのですが、使徒言行録18章24節以下で洗礼を巡って次のような出来事が書かれています。

《さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。

このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。

アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。》

 エフェソのクリスチャンたちは、パウロの「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」という質問に対し、彼らは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」という驚くような返答をしています。

 パウロの、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」との驚きが察せられます。

 彼らは「ヨハネの洗礼です」と答えますが、それは彼らに洗礼を授けたアポロ自身でさえ、「ヨハネの洗礼」しか知らなかったからでした。

 パウロは直ちに訂正し、「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と説き、これによって彼らもようやく「主イエスの名によって洗礼」に与ることが出来たのです。

 実際、パウロがアテネで伝道した時のこと、人々に次のように語っています。

使徒言行録17章22節、

《パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。》

 信仰は、私たちが神の名を知ることから始まるということでしょう。

しかし、信仰と救いと言われるその内実は、神ご自身が私の名を知っておられるということにありましょう。

私が神を知る前から、神が私を知っておられたことが、神を知って後に聖書から知らされる福音であります。

神の言葉に呼応する心が神より賜った霊というものでありましょう。

現代の洗礼式においても、主イエスの名によって洗礼を受けると共に、「聖霊を受けなさい」という宣言が告げられます。

キリストの福音を信じて水で洗礼を受ける者は、同時に神の聖霊をも受けたのです。

 

 人は神によって造られ、聖霊を吹き込まれて生きる者とされました。

そして、主イエス・キリストの名によって洗礼を受けることにより、神という永遠の命につらなるとして新しく生まれたのです。

 それゆえ、パウロは、数ある手紙のうち、ガラテヤ、フィリピ、フィレモンへの手紙の3通の結びの言葉として、

《兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン》

と、洗礼によってキリスト者が受けた神の霊に呼びかけるのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」