2025.07.06説教「ミッション」

聖霊降臨後第4主日

「ミッション」

 

ルカ10章1-20

◆七十二人を派遣する

 10:1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

 10:2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

 10:3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。

 10:4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

 10:5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

 10:6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

 10:7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。

 10:8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、

 10:9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

 10:10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。

 10:11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。

 10:12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 ◆悔い改めない町を叱る

 10:13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。

 10:14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。

 10:15 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。

 10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

 ◆七十二人、帰って来る

 10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

 10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。

 10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

 10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

礼拝の説教において、わたしは「ハッと」していただくことを目指しています。

 

「ハッとする」ということについて、自分のしたこと、話したことで、こちらの意図が伝わらず、あるいは、思慮が足りなかったことにより、説明しなければならない立場に立たされた時、誰もが「ハッと」させられます。

そこで、「そういうつもりではなかったのだ」と言い訳をしなければならないわけです。

ところが、「ハッとする」ことは、自分を改めるチャンスであるにもかかわらず、言い訳をすることにより、改まるチャンスを逸してしまい、もはや何も変わらず問題は繰り返されていくことにもなりかねません。

 

先週のルカの日課である9章の最後を見ますと、弟子たちの言い訳が書かれております。

イエスの大勢の弟子たちの何人かが、イエスの「わたしに従いなさい」との呼びかけに対し、直ちに従わないことの言い訳を述べたのでした。

従わないことの言い訳は、家族への「いとまごい」や、父の葬りでありました。

イエス当時のユダヤ社会では、権力者や社会からの要求に対して、「父の葬り」という言い訳は、すべてを退け、すべてに優先する理由とされ、そこに何の後ろめたさも感じる必要はなかったのです。

しかし、なぜ説明しなければならないことになったのかを振り返りますと、それは相手への配慮のなさと、相手の立場への想像力に欠けていたということが考えられます。

「ハッとした」ときに求められているのは、言い訳や説明ではないでしょう。

同じことを繰り返さないために、

何よりも相手を再び傷つけることがないように、

また、相手を失望させないためにも、

言い訳をしなければならないような生き方、考え方、物の見方、命との向き合い方を改めると言うことでありましょう。

 とは言え、説教は聴衆の方々を「ハッとさせる」ことばかりが目的ではありません。

これは語る者の預言者的な使命でありましょう。

そして、「ハッと」させたならば、「ホッとする」ところまで伴うことが求められます。

説教においては、ハッとさせるだけで終わることなく、ホッとすることができなければなりません。

これは牧会者としての使命となるでしょう。

 そこで、本日は「ホッとする」福音を携えた弟子たちのミッションについて御言葉から聴いてまいりましょう。

 本日与えられました御言葉は、ルカによる福音書10章1-20節となっています。

 ここは、イエスが72人の弟子たちを伝道者として派遣し、そして、その弟子たちが嬉々として帰って来て、イエスの事の次第を報告している場面です。

 ミッションとは、キリストに託された弟子たちの使命です。

 10章1節に、

《その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。》

とありますから、12人の弟子たちに加え、ほかに72人ですから、すでにイエスから正式に任命された弟子たちが84人になっていた様子がうかがえます。

 イエスが同伴されない12人の弟子の派遣については、ルカ福音書では、すでに9章1-6節で報告されています。

《イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。》

とある通りです。

 本日の10章4節でも同様に、

《財布も袋も履物も持って行くな。》

と命じられています。

ところが、もっとも初期の記録であるマルコ福音書6章8節によれば、

《旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。》

とあるように、初期の伝道には「杖と履物」は必需品でした。

 10章3節には、

《行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。》

と比喩的にイエスが語られていますが、実際、荒野での旅には獣対策としての杖は必要とされていました。

「杖と履物」とは、長旅、遠出のためでしたが、これらも禁じられて行くときに、遠くの町への伝達という働きから、近くにいる人々への配慮というように、時代と共に、あるいは教会の成長と共に、伝道の質・内容が変化してきているようにも受け取れます。

 何を伝えるために出かけるのかを見ますと、10章4-5節、

《途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。》

とあるように、キリストの到来による平和の訪れの告知でありました。

 また、10章9節には、

《その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。》

とあるように、イエスに任命され、派遣された弟子たちには、病気をいやす力と権能が授けられていたことは、彼らにとって幸いでした。

 と言いますのは、預言者や伝道者と言いましても、慰めを語る使命や働きばかりではありません。

神の罰の警告や悔い改めの告知を使命とする働き手もいたのです。

 例えば、古代イスラエルが滅ぼうとするときに遣わされたエレミヤという預言者は、エレミヤ書7章16節で、

《あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてわたしを煩わすな。わたしはあなたに耳を傾けない。》

とあります。

 また、新約の時代の伝道者パウロにおいても、コリント第2・13章2節以下で、

《以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。》

と言っています。

このように、安易に「ホッとさせる」ためだけに遣わされるわけでもなかったのです。

 

さて、「ホッとする」ということについて、10章17節を見ますと、

《七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」》

と報告されています。

 知らない町に行く、知らない人と会う、誰も知らないキリストを伝えるということによる緊張があったことと思います。

 その務めを終え、72人の弟子たちは、イエスの元へと帰って来たのです。

しかも、旅の興奮が冷めやらぬままに、嬉々として帰って来たのです。

 その「いやし」の報告は、主の御名、すなわち「お名前」の働きによる報告でありました。

 

 旅の途上での出来事を、

報告できる方がおられること、

成功しても失敗しても受け止めてくださる方がおられること、

そして、その働きについて喜び、ねぎらってくださる方がおられること、

これらが、派遣された弟子たちにとっての「ホッとする」ことであったことでしょう。

 しかしながら、イエスご自身が弟子たちの帰りを待っておられたのではなく、弟子たちの行き先で、すでに人々に寄り添い、働いておられたということでありましょう。

 ミッションとは、すでに行く先におられるキリストと出会うことでもあるのです。

 

 私たちにとって「ホッとする」出来事とは、何でしょうか。

 教会に来て挨拶をすることだけではないことでしょう。

教会で受け入れられること、

訪れたことが喜ばれること、

私という個人の日常が受け止められること、

祈ること以上に祈られる体験ができること、

一言で言うならば、大切にされることではないでしょうか。

そして、大切にされた者として、家庭や社会で人を大切にする者として遣わされていくことが、礼拝という出来事ではないでしょうか。

 これらが、「神からの祝福」と言われる言葉の内実でありましょう。

この内実に触れて、私たちは「ホッとする」福音に触れたのであり、福音の出来事に期待し、また信じるのです。

 このことが、10章20節にあるように、

《しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」》

と告げられているのです。

 あなたの名前が神の心に書き留められているという知らせこそが福音であり、あなた自身の安らぎと希望になるように。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」