2025.07.13説教「隣人とは誰か」

聖霊降臨後第5主日

宣教118年記念礼拝

「隣人とは誰か」

 

ルカ10:25-37

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると道の向こう側を通って行った。

10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

東京池袋教会の宣教118年目の歩みが与えられておりますことを私たちの神に感謝致します。

同時に、1900年にフィンランド・ルーテル福音“協会”より日本への最初の宣教師が派遣され、1907年からは池袋につながる宣教の一歩が千駄ヶ谷で始められました。

その宣教師とは、シーリ・ウーシタロさんとコスケンニエミ夫妻、副島秀さんと記録されています。118年前のことでした。

1923年、フィンランド・ミッションにより神学校設立のために池袋の現在地が取得されました。

1924年から1926年まで神学教育が行われ、9名の日本人伝道師が卒業に至りました。

そのお一人が武村義雄先生であり、当教会の会員である小嶋牧師夫人・恵子さんのお父様でありました。

また神学校校長であられたサロネン先生のひ孫にあたる家族が100年の時を経て先日訪ねて来られたことは感無量の出来事でありました。

1931年、池袋の神学校に隣接する形で東京福音ルーテル教会となる第一会堂が献堂され、巣鴨の地より移転して来たのです。

そのいきさつは本日の週報の表紙に載せております。

この記録は、イルマ・ルース・アホ宣教師が池袋の宣教師館に半年ほど滞在し聴き取りを通してまとめられたものです。

イルマ・ルース・アホ宣教師著「日本人クリスチャン」(1960)から転載。

「1931年、池袋の宣教師館の敷地内に小さな教会が建てられました。その教会建設のために、牛丸摠五郎牧師は大きな働きをし、1915年から続けてきた募金活動にさらに力を注ぎました。土地自体はミッションから無償で提供されたものでしたが、建物の建設費用は日本人自身の責任でした。摠五郎牧師は熱心に働きかけ、宣教地全体から献金が寄せられました。

この記述を書いている現在でも、多くの年配の日本人信徒たちが筆者にこう語ってくれています。『私たちもあの時、池袋の教会のために献金しましたよ』それは決して大きな建物ではありませんでしたが、それでもまぎれもないキリスト教会でした。――異教の恐ろしい闇のただ中に、ぽつんと輝く小さな光。そこには高貴な家柄の人々は来ませんでした。訪れていたのは、ごくごく普通の、目立たない、謙遜な日本人たち。しかし彼らこそが、キリストの血によって贖われた、神の目に尊い人々だったのです。」

 

さて、本日の福音書の場面は、ある律法学者がイエスを試そうと思って発した問いから始まります。

律法学者:「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」

イエス:「律法には何と書いてあるか」

律法学者:「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」

イエス:「正しい。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」

律法学者:「では、隣人とは誰ですか?」

 

「わたしの隣人とは誰か」

― この究極の問題を説くために、イエスは「善いサマリア人」の例えをお話しになりました。

例えは、「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。

追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った」と始まります。

例え話というものは、誰でもがよくわかる日常のことに例えて解り易く話すものですから、「追いはぎ」もまた身近な例えであったことになります。

現在、聖書に触れる私たちにとって、この「追いはぎ」という例えは、日常的でしょうか?身近な例えでしょうか?

あえて、こう問い掛けましたのは、「追いはぎ」が身近な例えとなることが今も起こりかねないことを知っていただきたかったからです。

それは、日雇い労働者の町のことであり、路上生活を余儀なくされている人たちが置かれている状況です。

追いはぎのみならず、路上生活者への暴行事件は現代の社会問題でもあるのです。

関東では、「ほしくずの会」の活動が知られていますが、ルーテル教会の活動としては大阪の釜ヶ崎で喜望の家という・アルコール依存症の方々の自立支援を行っています。

以前おりました教会は釜ヶ崎に近く、喜望の家の利用者も礼拝に出席しておられました。

ちょうど本日と同じ「善いサマリア人」のお話をしていたところ、「身近な例えですか?」と問い掛けましたら、「あるある!」と応答されていました。

また、「釜ヶ崎では追いはぎのことを『しのぎ』と言って、多額の収入があった人は気をつけておられました。」と話しましたら、同じその方が手を挙げられ、「東京じゃあ、『まぐろ』と言うんだよ」と教えてくださいました。

路上に寝ている人が「まぐろ」ではなくて、追いはぎをするほうが「まぐろ」なんですか?と確認すると、そうなのだということでした。

 

本日の例え話を理解する上で鍵となるのは、追いはぎに襲われた人が、「半殺し」という瀕死の状態であったことです。

その場に遭遇した一人目と二人目の通行人は、祭司であり、またレビ人でありました。

彼らは共に礼拝に携わることを務めとする者たちです。

そして、彼らには職務規定があり、死体に触れることは禁じられていたのです。

いや、襲われた人は重傷であって死んではいませんよ、と私たちは読みますが、介抱している間に死に至るようなことになったら・・・という予測が、祭司たちにケガ人を介抱する道を閉ざしてしまうのです。(レビ21章)

奇しくも三人目の通行人はサマリア人でありました。

 

ユダヤとサマリアの断絶には歴史があります。

イエスの時代より遡ること1000年、ダビデ王が治めるイスラエル統一王国時代は、確かにサマリアの地域もエフライムというイスラエル12部族の一つが居住する地域でありました。

ソロモン王の後、王国は南北に分裂しますが、まだイスラエル人たちの居住地でありました。

紀元前722年、北からエフライムまでの北イスラエル王国は、メソポタミア地方の大国・アッシリアによって征服され、アッシリア王の政策により、敗戦国の住民は連れ去られ、代わって外国人たちが配置されるという民族の入れ替えが行われていました。

これによって、以後、エフライム以北は外国人の居住区となったのです。その結果、人種と宗教が入り混じることとなりました。

しかしながら、エルサレムを含む南ユダ王国も、紀元前598年、アッシリアに代わるバビロニアによって滅ぼされてしまいます。

バビロニアの支配は、指導者と技術者を捕虜とするものでした。

以後50年間、バビロンでの捕虜時代は続きますが、550年、ペルシャの台頭によって南ユダからの捕虜は解放されます。

解放後、イスラエルの残りの民は、ペルシャ王の支援を受け、50年を費やしてユダヤとして南ユダ王国の復興を果たします。

その国境がエルサレムとサマリアの間ということになるのです。

さらに時代は下って紀元前37年~4年、ヘロデ大王の時代には、領土としては、かつての統一王国時代に匹敵するぐらいまで拡大はされたものの、住民はそのままでありましたから、ユダヤとサマリア地域の断絶は、その後も続くこととなったのです。

 

倒れていた人は明らかにユダヤ人であったでしょう。

にもかかわらず、このサマリア人が助けようと思った動機は、33節「見て、憐れに思い」という心です。

そして、さらに「近寄って」介抱します。

通り過ぎた先の二人が、31節-32節、あえて「道の向こう側を通って」とあるように、「見て、離れた」ことには胸が痛みます。

また、この福音書記者・医者ルカの視点からか、「傷に油とぶどう酒を注ぎ」とは、的を得た手際のよい手当に思えます。

イエスは問います。

「だれが隣人となったか」

学者は答えます。

「その人を助けた人です」

そこで、イエスはおっしゃいます。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」

イエスの言葉は「行きなさい!」という勢いです。

しかも「直ちに!」です。

 

最後に、もう一つエピソードをご紹介します。

先ほど歌いました讃美歌「日本へ、さあ日本へ」と題する歌についてです。

同じくアホ先生の御本にある石坂真砂さんについて書かれた記録の中で、アホ先生自身の体験が述べられておりました。

 

「写真にはフィンランド人の姿も多く写っていますが、日本人の中に混じってフィンランド人の顔が見えることもあります。フィンランド人たちもまた、面白く古風な服を着ています。私はこれまで名前だけ聞いたことのある人たちの写真を見ることができますが、実際に会ったことがありません。彼らを見るのは不思議で驚きに満ちています。彼らの中にはすでに亡くなった人もいますし、晩年に会った人もいます。若い頃の彼らがどんなに興味深い容姿だったのかを見るのは面白いです。彼らはテニスをしたり、飛び込み台から湖に飛び込んだりしていて、「まあ!彼らは全然太っていない!」と驚きます。彼らは子どもを抱えたり、演説をしたり、家庭菜園を掘ったり、墓の前で静かに祈ったりしています。女性たちは広いレースの襟のあるドレスを着ています。フレアスカートを履いた女性たちの中には、なんとも魅力的な、いや、むしろユーモラスな帽子をかぶっている人もいます。彼らは皆、どこか愛おしくて可愛らしいフィンランド人であり、過ぎ去った時代の思い出が温かい波のように私の心を覆い、胸が詰まるような気持ちになります。静かなミンッキネン、真面目なシーリ・ウーシタロ、微笑みを浮かべたアルトゥリ・カレン――これが日本での宣教活動だったのだ、そしてこれが、かつて信仰を持って遠い異国へ旅立った人たちなのだと思います。

あの頃、私たちはハンコ(地名のHanko)の祈祷室で「日本へ、さあ日本へ!」と熱心に歌いながら、献金袋に10ペニーを入れていたことを思い出します。そして私は、どうしてもその思いに駆られて途中で席を立ち、宣教師館のオルガンで『シオンのカンテレ』の489番を一指で弾きます。「主よ、あなたが私たちに日本への道を開いてくださいました! 心に熱意をも与えてください!」

と綴られています。

 

確かに、フィンランドのキリスト者は、直ちに日本人の隣人となってくださいました。

今、日本に生きるキリスト者にとって、誰が隣人でありましょうか。

私たちは、私たち教会の歴史から、キリストにある隣人とは誰かを示されてまいりましょう。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」