2025.07.20説教「もてなし」
聖霊降臨後第6主日
「もてなし」
ルカ10章38-42
◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は、与えられました福音書の御言葉から聴いてまいります。
このルカによる福音書10章8節から始まる「マルタとマリア」のエピソードは、教会では実によく知られたお話です。
そして、ルカによる福音書が紹介する「マルタとマリア」に関する出来事は、ここだけであり、俗に言う「働き者のマルタと信仰深いマリア」というイメージを強く印象付けることとなっています。
「マルタとマリア」の人物像については折に触れてお話しておりますから、単に「働き者のマルタと信仰深いマリア」というわけではないことはご承知かと存じますが、初めて私の説教に触れる方のために、「マルタとマリア」について他の福音書も伝える二人の背景をご紹介しておきます。
申し上げました通り、ルカ福音書における「マルタとマリア」の話は本日の箇所のみとなっておりますが、ヨハネによる福音書では別の「マルタとマリア」のエピソードが収められています。
それは、ヨハネ福音書11章にある、マルタとマリアの兄弟ラザロの死と復活の物語と、同じく12章で伝えられている彼らの家での宴会の場面です。
なぜ「働き者のマルタと信仰深いマリア」と言われるのかについては、本日のルカ福音書からの印象によるものです。
しかしながら、せわしく働くマルタの姿に対して、マリアの信仰が語られているのかと見れば、実は一言も書かれてはいないのです。
ただ10章39節に、
《マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。》
と描かれているばかりです。
そこで、ヨハネ福音書が紹介する出来事から、マルタとマリアの信仰というものを確かめてみましょう。
ヨハネによる福音書11章21節を見ますと、次のように述べられています。
イエスとマルタの復活についての問答です。
《マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」》
と、言葉が交わされています。
マルタが「復活信仰」というものを信じていたことがわかります。
これは当時のユダヤ教において、エルサレム神殿に巡礼し、動物の犠牲を捧げて罪の赦しを受けるという信仰に留まらず、ファリサイ派の学者たちによって説かれていた復活信仰というものをマルタも信じていたと言えるでしょう。
何よりも、マルタが兄弟ラザロの死に際しても、イエスに対して希望をもっており、
《主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。》
との信仰告白は特筆すべきことです。
他方、この場面におけるマリアの姿はどうであったのかを見ますと、ヨハネ福音書11章32節、
《マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。》
と、イエスの流された涙は気になるところですが、ここでは兄弟ラザロの死によるマリアの絶望を知ることになります。
ここでもまた、マリアの言葉としては信仰を聞くことはできません。
では、マリアの秘めた信仰について、また、イエスに対する信頼については、どのように伝えられているでしょうか。
このことは、ヨハネ福音書12章に描かれています。
《過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。》
マリアは口下手であったのでしょうか。
一言も語らず、説明もせず、イエスに対して誰もが驚く行動に出たのでした。
この香油は300デナリオン、すなわち成人男性の年収に相当する高価なものであったことが出来事の中で述べられています。
この行為に対するマリアからの説明は最後まで語られてはいません。
むしろ、マリアはかえって寡黙にこれを成し遂げています。そして、マリアに代わりイエスご自身が、この行為について意味づけしておられます。
ヨハネ12章7節、
《イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。》
と。
マリアが持っていた300デナリオンもの香油は、どこから来たのか?
そのわけは記されてはいません。
しかし、マルタ、マリア、ラザロの暮らすべタニアという小さな村とは無縁の品物に思えます。
しかし、高価な香油であるがゆえに、そこにマリアの悲しみと絶望が感じられるものです。
さて、ルカが伝える「マルタとマリア」の出来事へと戻ります。
時代的には、ルカが先に書かれ、ヨハネは随分遅れて書かれた福音書ではありますが、ヨハネ独自の「マルタとマリア」に関する資料をもっていたのでしょう。
二つの福音書によって、「マルタとマリア」の姿は豊かにされ、生き生きとしてまいります。
ルカ10章38節を見ますと、
《一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。》
とあります。
イエスが弟子たちを町や村へと派遣された時、迎え入れられた家を祝福し、そこで世話になりなさいと教えられていました。
このマルタとマリア、そしてラザロの家もまた、イエスの評判を聞き、厚意と期待をもって彼らを迎え入れ、出会われたのでありましょう。
マルタはイエス一行を迎え入れました。
迎え入れるということは、「もてなす」ということです。
旅人をもてなすことは、古代イスラエルの時代から受け継がれたユダヤの文化でありました。
その起源をアブラハムの姿に見ることができます。
創世記18章、
《主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。》
とあります。
《お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。》というアブラハムの言葉から、旅人をもてなそうとする温かな気持ちが伝わってまいります。
また、旧約聖書・ルツ記に収められている「落穂拾い」の物語にも、寄留者への思いやりが表れています。
このように、「もてなし」とは、「互いに通り過ぎないで相手の前に立ち止まる」という隣人愛の実践でもあります。
マルタもまた、この「もてなしの伝統」に長けた人でありました。
ルカ10章でもヨハネ12章でも、マルタはもてなし役でした。言うならば、「誇り高きユダヤ人」であるとも言えましょう。
ところが、マルタはイエスに小言をもらします。
10章40節、
《マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」》
マリアが主の足もとに座って、イエスの話に聞き入っていたからでした。
思い煩うマルタにイエスは二つのことを語られます。
41節、
《主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。》
マルタに限らず、誰もが思い煩う物事を背負っています。
この「思い煩う」を表す古いギリシャ語は、「心が分かたれている」という意味を表します。
イエスは、そのようにマルタに声をおかけになりました。
また、もう一言、42節で、
《しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」》
とおっしゃいました。
ここで、イエスは《マリアは良い方を選んだ》とおっしゃっていますが、さて、マリアにほかの選択などあったでしょうか。
後に書かれたヨハネ福音書が伝える「マルタとマリア」の物語を読む時、高価な香油を通して、マリアには負いきれない過去が暗示されているように思えます。
そして、イエスと出会ったマリアには、イエスにすがる以外の道は無かったでありましょう。
これに対し、マルタには生き方の選択肢があるように思えます。
†
先日の宮本神学校校長をお招きした日の午後の学びで紹介したのですが、人生の選択肢を問う「降りてゆく生き方」という著作があります。
そこには、北海道の浦河町にある「べてるの家」と呼ばれる、統合失調症や精神障がいなどをかかえる当事者たちの生活共同体について書かれています。
著者のフリージャーナリスト・横川和夫さんによる「べてるの家」の立ち上げに関わられたソーシャルワーカー・向谷地生良(むかいやち・いくよし)さんと精神科医・川村敏明さんへの聴き取り、そして当事者や親たちの証言を軸に構成されています。
本の中で、次のように述べられていました。
《「ほんとうの回復というのは右肩上がりの高いところにあるのではなくて、自分のなかの低いところ、それも自分の真下にあることがわかった。」(p.60)》
《「私たちは近代化や合理化を通じて、人間として本来もっている基本的に大切なもののうえに、学歴とか経済力とかを、オプションのようにプラスアルファの価値として身につけてきたわけです。
回復するということは、人間が人間であるために、そういう背負わされた余計なものをひとつずつとり去って、本来の自分をとり戻していく作業なんです。
何をしたらよいか、何をしてあげなければならないかではなく、何をしないほうがよいか、何をやめるか、つまり足し算ではなく引き算が、べてるの家のキーワードです。
それが降りていくということでもあり、そうすることによって、人間が本来もっている力を発揮できるようになっていく、という考え方なんです。」(p.67)》
マルタは、イエスをもてなすも、イエスに聴き入るも、選択できる立場であったがゆえに、心が分かたれているという「思い煩い」をも負っていました。
マリアには選択の余地はありませんでしたが、イエスにすがる道が残されました。
《しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」》
ありのままが受け入れられるところにマリアは身を置いています。マリアにとって必要な、ただ一つの道でありました。
先ほどの「降りてゆく生き方」が語るのは、
《何をしたらよいか、何をしてあげなければならないかではなく、何をしないほうがよいか、何をやめるか、つまり足し算ではなく引き算が、べてるの家のキーワードです。
それが降りていくということでもあり、そうすることによって、人間が本来もっている力を発揮できるようになっていく、という考え方なんです。》
でありました。
足し算で組み立てられて行く人生ですが、どこかを起点として引き算となる人生でもあります。
引き算によって明らかとなる私たち自身と、キリストは向かい合ってくださいます。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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