2025.07.27説教「心が動く」

聖霊降臨後第7主日

「心が動く」

 

ルカ11章1-13

◆祈るときには

 11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

 11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。

 11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

 11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。

 11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』

 11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

 11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

 11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

 11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。

 11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日は、ルカによる福音書11章1節以下から聴いてまいります。与えられました箇所の前半は「主の祈り」について、後半は「求めなさい。そうすれば、与えられる」ということについての例え話となっています。

 

 キリスト教会では、礼拝においても小さな集まりでも、「主の祈り」は頻繁に用いられる代表的な祈りの言葉の一つです。

「主の祈り」は、ルカ福音書11章とマタイ福音書6章の2箇所に書かれていますが、マタイがより詳しく伝えています。

 本日のルカ11章1節以下、

《イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。》

とあるように、イエスが弟子たちに教えてくださった祈りの形と言葉です。

「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように」とあることから、洗礼者ヨハネは彼自身に追随する者たちに祈りの形と言葉を教えていたこともわかります。

 また、ヨハネ福音書1章40節には、

《ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。》

とあるように、ルカ11章1節でイエスに祈りの教えを求めている「弟子の一人」とは、アンデレであろうと察せられます。

 初めに、「主の祈り」について、少しご紹介致します。

「主の祈り」も、「十戒」と同じように、初めに神の事柄についての言葉があり、それから人間に関する事柄が続く形となっています。

ルカ11章2節、

《そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。》

まず、

  1. 御名が崇められますように。
  2. 御国が来ますように。

とイエスは教えておられます。

 さらにマタイでは、「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」と加えられています。

 次に、私たちの事柄について。

  1. わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
  2. わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。
  3. わたしたちを誘惑に遭わせないでください。

 イエスは、弟子たちを、そして私たちを、祈ることを通して赦す者へといざなっておられるように受け取れます。

「わたしたちの罪を赦してください」と祈りなさい、求めなさいと教えつつ、その実は赦す者となることが目指されているからです。

 また、赦すことに先んじて、日ごとの糧を求めよとおっしゃいます。

この糧とは、見える糧はもちろんのこと、見えざる霊的糧をも求めよとの教えであることを忘れてはならないでしょう。

 

 

 さて、本日の説教題は「心が動く」としております。

一般的に、「不動の神」という表現があります。

全知全能、また絶対という、頑固で厳しく、揺るがない神のイメージとも言えます。

しかしながら、神や仏の厳しさは、愛の深さの裏返しでもあり、不動明王に例えれば、鬼のような形相にもかかわらず、力づくでも人間を救おうとする、仏としての大日如来の別の顔であります。

 

本日の第1の朗読にありました旧約聖書の日課は、アブラハムが神の裁きを値切るという興味深い箇所でありました。

私自身、大好きな箇所でもあります。

創世記18章23-26節、

《アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」》

 アブラハムと向き合う、ここに顕れる神は、不動の神ではなく、話が分かる柔軟な神として描かれています。

最終的に、アブラハムは正しい者が10人というところまで迫っています。

1人とまでは言わなかったのは、アブラハムの節度でありましょうか。

 

 本日のルカ福音書の日課の後半では、イエスによる例え話が紹介されています。

ルカ11章5節以下、

《また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。》

という話でありました。

 

「人を動かすもの」は、その人の心、気持ちでありましょう。

心が動く時、その人は行動を起こすのです。

心が動かなければ、何も起こりません。

その意味で、この例え話に登場する「友」の心を動かしたものは何であったのでしょうか。

 また、先ほどのアブラハムが、神にソドムの人々への赦しを嘆願したことにおいても、神の心を赦しへと向けたものは何であったのでしょうか。

「よし、わかった。任せてください!」と、私たちを・あなたを動かして来たものは何でありましたか?

 そこで、イエスはおっしゃいました。

ルカ11章9節以下、

《そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。》

と。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。」という、あの有名な御言葉です。

 8節にもありましたように、

「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」

と、イエスは「しつように頼めば」とおっしゃいます。

「しつように」とは、忍耐強く、熱心に、あきらめずに求めることでありましょう。

 しかし実際、「そうすれば応えていただける」というほど話は簡単には進みませんし、求める人によって心が動かされる必要があります。

 人の心を動かすものとして、その結果、人に行動を起こさせるのもとして、喜び、悲しみ、怒り、怖れ、驚き、期待、信頼などが考えられます。

 ある人の求めによって、いずれかの気持ちがゆさぶられた時に、人はその人の気持ちや立場を想像し、それゆえ共感し、行動するのではないでしょうか。

 

 キリストの弟子たちは、喜びだけでは一つとなることは叶わず、十字架を恐れ、逃げ、隠れる弱さと悲しみと絶望を通して一つとなり、そこからキリストの十字架での死と復活を証言する者とされました。

 

 もう一度、ルカ11章9節以下、思い起こしてみましょう。

《そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。》

とあります。

 私たちは日ごとの糧にも飢えているがゆえに、求めています。

「求めているのは私です」ということでいっぱいになっています。

しかし、私たち以上に神が私たちを求めておられることを失念してはいないでしょうか。

 

 そこで思い直してみるのです。読み直しているのです。

 神は、人を求めておられるがゆえに、それを得られた。

探しておられたがゆえに、それを見つけられた。

私たちに吹き入れた霊をたたき続けてくださったがゆえに、それは私たちをして開かれたのです。

求める神は人を得、探す神は人を見いだし、霊の扉をたたく神によって、人の内なる霊は開かれたのです。

 

 アブラハムの、神にすがる思いでの執り成しに、神は心を動かされました。

アブラハムの悲しみに寄り添われたのです。

 知人の途方に暮れる訴えとその悲しみを想像し、友は扉を開きました。

友は友の悲しみに寄り添ったのです。

 

 喜びには嫉妬する者もいるだろうけれども、悲しみに嫉妬する者はいないし、誰も悲しみをおろそかにする者はいません。

 人のかかえる悲しみが、神の心を動かしたように、教会を変え、世界を変えるものは、人のかかえる悲しみであることを、私たちは知らされたいのです。

今年の教会の主題である、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とは、このことであるのです。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」