2025.08.10説教「選ぶ」
聖霊降臨後第9主日
「選ぶ」
ルカ12章32-40
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は、ルカによる福音書12章32節から40節の御言葉が与えられています。
まず32節において、
《小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。》
という、イエスの呼びかけから始まります。
何という、ホッとする御言葉でしょうか。
弟子たちは、このようにイエスから言葉をいただいていたのです。
人生をかけて従って行く弟子の心境もわからなくもありません。
この言葉は、イエスが弟子たちに、「思い悩むな」と語りかけられた言葉の締めくくりの部分でありますが、現代、「小さな群れよ」とは、もちろん私たち教会のことでもあります。
聖書を読む、聖書に聴くという行為には、当事者性が求められるものでもあります。
それは、誰かに語られた言葉ではなく、私に語られた言葉として聴く時に初めて、言葉の体温・温もりが伝わって来るものだからです。
しかしながら、ルーテル教会の礼拝は、「罪の告白」から始まります。「ざんげ」とも言います。
礼拝に慣れない方々にとっては、この、いきなりの罪の告白に抵抗感があるそうです。
ルーテル教会出身のある牧師が、単立教会を開拓伝道されました。
苦節10年、砂を舐めるような苦労をされたそうですが、ようやく教会を構え、ルーテル教会の式文で礼拝を行われていました。
ある時の役員会で、「先生、罪の告白は月1回にしませんか。礼拝の度にざんげがあると、気持ちが暗くなります」と言われたそうです。
もちろん牧師は、ざんげの大切さを熱弁されましたが伝わらず、その教会は信徒に託し、ルーテル教会へと戻られたケースがありました。
「つみびと」としての当事者性のないところに、赦しや救いという出来事が起こるのだろうかと考えさせられます。
聖書が言う罪とは、犯した過ちのみならず、しなかったことへの怠りの罪というものが含まれます。
すなわち、愛を行うことが求められている、ということです。
32節は、小さな群れに対して、「恐れるな」とも語っています。
私たちは、何かを恐れているのでしょうか。
恐れるとすれば、何を恐れているのでしょうか。
教会関連施設の危機管理について話し合った時、どんなところに危険が潜んでいるかと意見を出し合いました。
物陰やら道具の破損、外部からの侵入者など、いくつもの注意点が挙げられました。
最後に出された意見は、「心のゆるみ」という自分自身を振り返るものでした。
「怖いもの知らず」という心こそ、恐れるべきことかもしれません。
32節で言う「恐れるな」とは、「思い悩むな」というイエスの語りかけの流れですから、明日への思い煩い、将来への不安を指すものでありましょう。
その励ましとして、
《あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。》
と語られます。
「神の国をくださる」、それは将来迎えてくださる「あの世」ばかりではなく、今私たちが生かされている「この世」もまた、神のものとして回復してくださるという希望の言葉でありました。
また、神の国は行くところということではなく、信仰によって入るところでもなく、神が喜んで与えてくださるもの、私たちのもとへと訪れるものとして語られていることが、聴く者をホッとさせるのでありましょう。
弟子たち12人は、当然のことながら、それぞれに様々な憂いをかかえていたことでしょう。
にもかかわらず、この「神の国をくださる」というイエスのひと言で、12人の心が一つとされた出来事でもあります。
そうです!弟子たちはひとりひとりイエスに声をかけられ、「神の国を回復し、神の国をくださる、その時は、いつですか?その時は今なのですね!」と立ち上がり、イエスに従ったのでした。
これは教会も同じでありましょう。
それぞれに様々な憂いをかかえておりますが、「神の国をくださる」というこの一点において、私たちもまた一つとされる「小さな群れ」であります。
さて、本日注目しますのは34節、
《あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。》
との御言葉です。
ここで「富」と訳されている言葉は、以前は「宝」とされていました。
単純に「財宝」という意味の言葉が使われています。
自分にとって大切なものに気を取られてしまうという、人の自然なありさまでもあるでしょう。
人の心がとらわれているものは、何もお金だけではありません。
名誉であり、家柄であり、経験であり、野望でもありましょう。
また、悪いものばかりとも限りません。
健康であり、家族であり、自分なりの希望もあることでしょう。
そして、人の心をとらえるものは、人に都合の良いものばかりでなく、富とは逆に、貧しさというものもあります。
これらすべてが人の心をとらえ、時に欲となり、時に家族への思いとなり、そして自分自身の内なる痛みが人を悩まします。
本日の御言葉は、すべてを貧しい者に施すことを通して、財産という富を神の主権に委ねることにより、とらわれた心の解放と施された者たちにおける神の憐れみの確信をも語っています。
しかしながら、カルト宗教が社会問題として取り上げられている現代、言葉を配信するということによって視聴者に誤解を与えぬよう、今回は視点を変えて本日の御言葉を聴いてまいります。
これに代えて、心の痛みが人をとらえているという現実から考えてまいります。
かつて教会に併設された幼稚園に関わっておりました時に、中学生の職場体験を受け入れる機会がありました。
やさしい聖書の話、幼い子どもたちとの向き合い方、子どもたちの社会性をはぐくむ仕事のやりがいなどを紹介しつつ、実際に中学生たちも子どもたちと触れ合います。
そのような中学生との出会いの中、職場体験に訪れた中学2年生10人ぐらいに、「みなさんそれぞれにとって、『忘れられない人』って誰でしょうか?」という問いかけを致しました。
問いかけた私の意図は、心の支えとなっている人や言葉、将来の方向に影響を与えてくれた人や言葉を想定しての質問でした。
一番人気は「おばあちゃん」でした。
続いて、「お母さん」。
その時は、「お父さん」や「おじいちゃん」との声を聴けなかったのは残念です。
それぞれに人の優しさや温かさを語ってくれました。
その中で一人、「クラブ活動の顧問の先生」と答えた生徒がいました。
学校の先生と聞いて、将来の夢を支えてくれる人なのかなと期待をして聴いていますと、クラブ活動において「お前なんかいらない。お前の代わりはいくらでもいる」と言われたということでした。
何と哀しい言葉でしょう。
どれほど傷ついてことでしょう。
私は耳を疑いましたが、その哀しさは事実でした。
クラブ活動における顧問の教師からの叱咤激励であったかもしれませんが、その言葉は教師の期待通りには働きませんでした。
哀しみがこれほど人の心をとらえてしまう現実に対し、生徒との3日間、彼女の存在をひたすら喜ぶ者でありたいと努めました。
今一度34節に立ち返り、考えてみましょう。
《あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。》
と語られています。
これは、33節の、
《尽きることのない富を天に積みなさい。》
との言葉に続く、説明でもあります。
しかしながら、いわゆる出家し、イエスに従う弟子たちには、すでに財産と言えるものなど何もありません。
なぜならば、彼らは、本日の御言葉の直前に記されていたように、「何を食べようか、何を着ようか」と思い煩っていたのですから。
そしてまた、ここでは彼らにとっての「富」が何であるのかも明らかにはされていません。
そこで、本日の第2の朗読で読んでいただいた、ヘブライ人への手紙11章の箇所の続きにある24節以下に、注目すべき御言葉が記されています。
《信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。》
とあります。
モーセは、「神のゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えた」のでした。
なるほど、これこそ弟子たちにとっての富とうなずけます。
それは、キリストに従うゆえに受ける「あざけり」と等しいものでありました。
翻って、34節の御言葉を神のまなざしから見ますと、
《あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。》
とおっしゃるイエスがおられます。
このイエスの御言葉は、そのままイエスご自身の思いとして、「わたしの富のあるところに、わたしの心もあるのだ」と聴こえて来ます。
いかがでしょう?
聴こえてきませんか?
神にとっての富、宝は、人であることは言うまでもありません。
だからこそ、神は私たちに心とらわれて離れないお方であるのです。
「神が共にいる」、このことを民族や国家の後ろ盾としていまだ争っている世界であります。
悔い改めて、「神の国をくださる」ことが、再び人類を一つにする希望となりますように。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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