2025.08.17説教「遠くからの神」
聖霊降臨後第10主日
「遠くからの神」
エレミヤ23章23-29
23:23 わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。
23:24 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。
23:25 わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。
23:26 いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、
23:27 互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。
23:28 夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。
23:29 このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日はエレミヤ書、特に23章23-24節の御言葉から聴いてまいります。
8月も3週目を迎えました。毎年8月は、平和を記念する時を過ごします。
かつての戦争の終わりを覚え、戦争での犠牲者たちを記念し、また戦争経験者においてはその苦悩を思い返し、「過ちは繰り返しません」と平和を切実に祈る時であります。
日本の慣習では「お盆」と呼ばれる期間に、祖先の霊を覚え、召天者の記念を致します。
また、こぞって墓前に参る時でもあります。
東京ではお盆は7月に行われ、教会の近所でも、キュウリで作られた馬が玄関先に置かれている家があったことには驚きました。
日本の仏教的風習では、先祖の霊はキュウリの馬に乗って訪れ、ナスの牛に乗って帰ると言われています。
葬儀をすること、召天者を記念すること、墓参りをすることは、死者を託す神を知っているか、託すべきところを持っていないかで、その意義が大きく違ってくることでしょう。
死者を託す神を知っているということは、故人の霊もまた、神と共にあるということです。
そこで、本日はエレミヤ書23章23節から、神はどこにおられるのか?ということを聴いてまいります。
まず、23節を見てみますと、
《わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。》
とあります。
この「遠くからの神」という翻訳に惹かれ、本日の説教題としたのです。
調べてみますと、単に「遠くの神」と訳されているものばかりで、「遠くからの」と意味を持たせているものは、今読んでおります新共同訳聖書だけでありました。
この「遠くからの」という表現には、遠くにいた神であったけれども、私たちを見止め、すぐそばまで訪れてくださった神、人に寄り添う神、人と共にいる神という神学がここにはあります。
また、ここに描かれる神は旧約聖書の神ではありますが、新約聖書におけるキリストが来てくださったという福音に等しい、神から人への慈しみ深い思いが溢れています。
ただ近くにいる神ではなく、遠くから訪れてくださった神が伝えられているように思われます。
とは言え、旧約聖書時代の人々と神との距離は大いなるものでありました。
アブラハムはみ使いとまみえ、ヤコブはみ使いと格闘し、のちにモーセは神と相まみえましたが、モーセ以後、取り次ぐ者なき民衆にとって、神は千年の沈黙に入られたのでした。
例えば、民数記11章21節以下には、
《モーセは言った。「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」》
と神の手の短さが取り上げられています。
また、ハバクク書には、
《1:2 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない。》
などと、預言者ハバククは神の沈黙の終わりを求めています。
しかしながら、神は遠くの神に留まることなく、イスラエルの民を通り過ぎることなく、民の傍らに立ち止まられました。
エゼキエル書16章6節には、
《しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。》
と神の立ち止まりと民への呼びかけが書き留められています。
お盆には先祖の霊を迎えたり送ったりする日本の精神風土に対して、聖書はローマの信徒への手紙10章5節以下で次のように語っています。
10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
と述べられています。
信仰者が天にまで神を迎えに行くまでもなく、神はキリストとして私たちのもとに訪れてくださったのであり、また、キリストを陰府にまで連れ戻しに行くまでもなく、キリストはよみがえられたのであり、再び私たちの前に立ち上がってくださったのです。
最後に、エレミヤ書23章24節を見ますと、
《誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。》
ともあります。
神における千年の沈黙の間、イスラエルの民は神を見失い、神に対してまどろんでおりました。
しかし、神は民に対して、眠ることなく、まどろむこともなく、民を憐れむ神でありました。
その神が、千年の沈黙の時満ちて動かれます。
遠くからの神として民のもとへ勇んで来られます。
国を失い、さまよい、囚われの身となった民を解放されるのです。
天をも地をも満たしておられる神が民のもとへと訪れる時、神はただ私たちの近くにおられる神にあらず、その思いは民への慈しみで満たされている神であられます。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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