2025.08.24説教「気骨のある言葉」
聖霊降臨後第11主日
「気骨のある言葉」
イザヤ58章9-14
58:9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら
58:10 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
58:12 人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
58:13 安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら
58:14 そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日与えられております福音書の日課は、ルカ13章の安息日の癒しについてです。
本日は同じ主題ではありますが、旧約聖書の日課である、イザヤ書58章9節以下より御言葉を聴いてまいります。
イザヤ書については、これまでもしばしば紹介して参りました。
イザヤ書は紀元前750年から550年頃までのイスラエルの歴史について記録されています。
その間に人々が被った出来事は、国が滅び、敵国の捕虜となり、解放されるという、苦節50年の体験が含まれています。
これは、神の前にあってイスラエルの人々が犯した罪、それゆえの罰、そして赦しを象徴する出来事でありました。
罪と罰、そして赦しが語られるところ、そこには福音があります。
その意味で、イザヤ書は旧約聖書における福音書と言うことができるでしょう。
特に、7章14節と9章5節の「インマヌエル預言(御子の誕生)」、そして、53章では「神のしもべの苦難」というキリストが引き受けられることとなる受難の姿が描かれていることは重要です。
54章では「新しい祝福」、55章では「御言葉の力」、56章では「異邦人の救い」、61章では「貧しいものへの福音」、66章15節では「聖霊降臨」、66章19節では「人々の派遣」についてまでも語られていることは驚きです。
また、聖書66巻中、最も強く「平和」を訴える書簡はイザヤ書であると言えます。
イザヤ書2章ですでに平和が呼びかけられています。
2章4節、
《主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。》
とあります。
人を殺す道具を打ち換えて、人が生きる道具としようとの呼びかけは素晴らしいメッセージです。
これは、単に道具に限られることではありません。
私たち自身も神の愛によって打ち換えられていくことも指していると受け止めるべきメッセージです。
聖書66巻の中で、最も長編である書簡もイザヤ書です。
200年間の歴史について記録されていますから、それも当然でありましょう。
イザヤ書は66章にも及びます。
イザヤ書6章8節を見ますと、イザヤが預言者として召される場面が記されています。
紀元前750年のことでした。
《そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」》
とあります。
神の呼びかけに自ら主体的に応えていくイザヤの姿は力強く印象的です。
神の前に在ってなお公明正大である態度には打たれます。
その後、200年間。イザヤの意志と使命は、イザヤ教団として受け継がれて行くこととなるのです。
66章にもわたって語り続けられたイザヤ書のメッセージですが、私が印象深く記憶している御言葉は、66章2節の言葉です。
《わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。》
であります。
この御言葉は、神が私たちの世界の「どこを」見ておられるのかについて語ります。
それは、「苦しむ人、霊の砕かれた人」であると知らされますし、私たちはすでに知っているのです。
ゆえにキリストの教会は、世界のその痛みの部分に尽くすのです。
さて、本日はイザヤ書58章9節から14節までの御言葉から聴いてまいります。
まず13節を見ますと、
《安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。》
とあります。
本日の主日の主題は「安息日」でありましたから、安息日について取り上げられています。
安息日とは、「神は天地創造を6日間で成し遂げ、7日目に休まれた」という天地創造物語に由来するもので、1週間のうち1日は休むことが、モーセ以来、定められています。
ただ休むということではなく、神のために用いるということが求められています。
この安息日規定というもののポイントは、「わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ」と「主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び」という2点でありましょう。
すなわち、安息日とは、したいことをする日ではなく、すべきことをする日である、ということです。
また、「したいことではなく、すべきことをする」とは、安息日に限らず、常に戒められる御言葉でもあります。
本日注目するのは、11節の御言葉です。
《主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。》
とあります。
ここにいる私たちの多くの者は、奇しくも信仰というものと出会いました。
神を信じるに至り、感謝して生きるとは、驚くべき体験です。
教会を訪れる方々のきっかけは様々ですが、やはり病気と向き合うことによる事情は少なくありません。
病気といえども、身体のこと、心のこと、精神的なこと、年齢によるものなど様々です。
教会に行ってるから、あるいは信仰を持ったから病気が治るということではありませんが、快復を祈りつつも病気である自分と向き合い、病気を背負う力を与えられることが信仰の為せる業でありましょう。
何よりも今の状態を引き受けて行くことができる力が信仰でありましょう。
神に祈る時、多くの場合、強めてくださいと祈りますが、それぞれに「どこを」を支えられたいと願うのでありましょうか。
心を強められたいのでしょうか?
身体を強められたいのでしょうか?
あるいは、希望を持って生きるということでしょうか?
それとも、聖書の知識を深めたいのでしょうか?
ある年配の方を訪問し、何か私に出来ることはないかとお尋ねしたところ、その方は、「赦されたいのです」とおっしゃいました。
どういうことかとお聴きしますと、まだ若い時に、すべきことをせず、したいことをしてしまったことを悔いている、ということでありました。
これはまさに、神のみが与えることのできる救いなのだと思い知らされました。
そして、イザヤ書66章2節の、神が顧みられるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人であることを覚えます。
この11節の御言葉は、神を求める人々に対して、「主は骨に力を与えてくださる」と宣言しています。
様々な慰めや励ましの言葉はあるでしょうけれども、「骨に力を与える神」とは予想外の表現でありました。
この「骨に力を与えてくださる」とは、どういうことでしょうか。
そこで、「骨に力を与えてくださる」というイザヤの言葉を、同時代に生きたエゼキエルとエレミヤの「骨にまつわる」言葉と体験を通して聴いてまいります。
詳しく見ますと、「焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。」と述べられています。
「渇きの癒し」と「骨に力を与えてくださる」ことは、エゼキエル書37章が告げる「枯れた骨の復活」のメッセージに見ることができます。
エゼキエル書37章5節以下を参照しますと、
《これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」》
と告げられています。
続く8節では次のようにも語られています。
《わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。》
と。そして、13節では、
《わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。》
とあるように、
「骨に力を与えてくださる」とは、「神からの霊によって潤されてはじめて、枯れた骨は立ち上がる」という、永遠の命の先取りとも言える告知でありました。
イザヤ書にしてもエゼキエル書にしても、祖国を失った人々にあっては、「墓を開く」とはバビロンからの解放であり、神が国の復興を約束してくださる言葉として響いたことでしょう。
私たち現代の読者においては、「骨に力を与えてくださる」とは、神の霊によって骨の髄から潤されることだと聴き取れます。
最後に、エレミヤ書から、骨の疼きについて聴いてまいります。
預言者エレミヤもまた、イザヤ、エゼキエルと共に、イスラエルの滅びに立ち会った預言者でありました。
紀元前600年頃のことでありました。
エレミヤは「国の滅び」ということについて、50章17節で、
《イスラエルは獅子に追われてちりぢりになった羊。先にはアッシリアの王が食らい、今度はバビロンの王ネブカドレツァルが骨を砕いた。》
と、「骨が砕かれた」と表現しています。
ここでは、このことではなく、エレミヤが自分自身の心の問題として、「骨」という言葉を用いていることに注目します。
エレミヤ書23章9節、
《預言者たちについて。わたしの心臓はわたしのうちに破れ/骨はすべて力を失った。》
とあります。
この言葉は、神から他の預言者たちの堕落を告発されたエレミヤが、茫然自失となった心境を描いたものです。
「骨はすべて力を失った」とは、神の霊を取り上げられたような状態であったと受け取れます。
神の霊、すなわち聖霊は、「どこにでもある」「いつでもいる」、そして、「誰にでも」というものではないと、私は心得ます。
と言いますのは、イスラエルが王を構えて国家となり、初代の王サウルからダビデへと神の御旨によって王位が継承されて行く際の出来事が象徴的だからです。
これについてだけ、サムエル記上16章13節を引用しますと、
《サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。》
とある通りです。
戦う者同士の両者に聖霊がついているとは到底あり得ないことであり、その両者から聖霊は去ったと考えることがふさわしいと思われます。
ゆえに、戦争の終結を願う者は、「聖霊よ、直ちに来てください」と祈るのです。
エレミヤは、国の滅亡という神の審判を告げる預言者の務めに翻弄されます。
人々のために祈ること、慰めること、神に執り成すことを神に禁じられていたからです。
エレミヤは、そのような葛藤の中で神に告白します。
20章9節、
《主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。》
人々からの呪いの言葉と迫害の中で、エレミヤは骨の髄から燃え上がる主の言葉に圧倒され、神への降参と己の敗北を告白します。
エレミヤは、己の骨の髄から燃え上がる主の言葉によって、神からの審判を告げる預言者として立たされたのです。
「骨に力を与えてくださる」というイザヤによるメッセージを、同時代に生きたエゼキエルとエレミヤの体験を通して聴いてまいりました。
今を生きる私たちにとっての「骨に力を与えてくださる」という御言葉は、心の問題、身体の問題、暮らしの問題、人間関係の問題と、様々な問題を解決したいと願う心に、それらを引き受けて立つことができるよう、骨に力をくださるというメッセージでありましょう。
自分自身の芯から潤されるという体験は、聖霊をいただき、御言葉に聴くという信仰者の原点にあると聴いたのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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