2025.09.07.説教「十字架のわけ」
聖霊降臨後第13主日
「十字架のわけ」
ルカ14:25-33
14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
ルカ12:51-53
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
マタイ10:34-39
10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は福音書の日課から聴いてまいります。
特に目を留めてまいりますのは、27節、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」と、33節、「自分の持ち物を一切捨てないならば」の御言葉です。
このルカ14章25-33節に対する、他の福音書の並行箇所は、マタイ10章34-39節となっています。
そして、このマタイの箇所は、8/17の福音書の日課であった、ルカ12章51-53節の御言葉でもありましたので、ここで取り上げます。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
という、厳しいイエスの言葉をも含んでいます。
本日は、これも合わせて読んでまいります。
ここでルカは、イエスの言葉として「平和ではなく、むしろ分裂」と書き留めていますが、マタイは「平和ではなく、剣をもたらすため」と書いています。
ここを手掛かりとして考えてみます。
平和や反戦、反核運動・活動に関わる方々は少なくないと思います。
先日、平和運動に関わる方が書かれた、教会の伝道についての文章を読ませていただきました。
感想を求められましたので、幾つかの用語の使い方について私見を述べることとなりました。
例えば、伝道推進のための「伝道の武器」と表現されていたり、活動資金については「軍資金の調達」と表現されるなど、平和運動に関わる者としては別の単語を使われるのがよろしいのではないか、と申し上げた次第です。
これは私も含めて昭和に教育を受け、生きてきた者の習慣でありましょうけれども、平成を過ごし、令和となった今、言葉の表現を見直すことも平和への取り組みかと思います。
ご存知ですか?
平成生まれの若者たちは、「昭和」には「時代」を付け、「昭和時代」と呼んでいることを。
イエスが、「平和ではなく、分裂をもたらす」と語られた言葉は意味深長です。
マタイの助けを借り、「分裂」は「剣」でもあると受け取りますと、少し理解へとつながっていきます。
まず、マタイ26章52節で、「イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』」と言われているように、戦いのための、ただの剣に例えておられるのではないことが分かります。
また、伝道者パウロはエフェソの信徒への手紙6章11節以下で、次のように説明しています。
6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
つまり、剣とは、霊の剣。
それは神の言葉と、パウロは受け留めました。
私たちもパウロの信仰を支持し、アーメンと唱えたい。
そして、神の言葉に対する態度で、人々は右と左に分けられていくことになる、と理解するものです。
次に、ルカ14章33節にあります、「自分の持ち物を一切捨てないならば」という御言葉について考えます。
ルカは、幾つかの場面で「すべてを捨てる」ことにこだわっています。
例えば、ペトロたちの召命の出来事では、5章11節「すべてを捨ててイエスに従った」とあります。
5章28節でも、徴税人が「何もかも捨てて立ち上がる」姿が描かれています。
また、9章3節では、弟子たち12人をミニ伝道旅行に送り出す場面でも、ルカだけは杖も許さず、「旅には何も持って行ってはならない」と教えます。
すべてを捨て、何も持たないところに、無くてならぬものが鮮やかに示される、というルカ特有のメッセージであるようです。
最後に、「自分の十字架を背負って」との呼びかけを考えます。
「自分の十字架」と言われている通り、この十字架はイエスが背負われた十字架とは別の十字架でありましょう。
今では、それぞれに負うべき「重荷」と受け取ってもよいでしょう。
但し、イエスと同時代には、イエス同様、殉教という事態も考えられます。
実際、多数の殉教者が出されたことは歴史的事実でもあります。
また、権威主義的教会の時代には、異端とされた者たちの殉教も後を絶たないものでした。
さらに近代に至っても、キリシタン殉教を見ることになります。
今や、殉教が当たり前ではない時代において、私たちにとっての「自分の十字架を背負う」とは、どのような意味を持つ言葉でしょうか。
私たちの目前に掲げられているものは、確かに十字架です。
しかし、ルター以来、ルーテル教会が掲げてきた十字架は「受難の十字架」ではありません。
ルター自身が、「受難のイエス」のお姿を十字架から下ろし、よみがえられたキリストを証しする「復活の十字架」へと替えたのです。
ゆえに今、私たちが背負うべき十字架は、復活の十字架であります。
私たちのためにイエスが死んだ、というメッセージからは希望を見出しにくいものです。
私たちのために立ち上げってくださったことが、私たちの希望です。
私たちも誰がために立ち上がらせていただきたい。
死で終わることなく、その先を示し、神にある永遠の命・魂の憩いが復活の十字架のメッセージなのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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