2025.9.21説教「どなたでも」
福音書記者マタイの日
「どなたでも」
マタイ9章9-26
◆マタイを弟子にする
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
◆指導者の娘とイエスの服に触れる女
9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
教会の立て看板には「どなたでも」とあります。
イエスは弟子を召されるとき、どなたを招かれたかを聞いてまいります。
本日は福音書記者マタイの日。
与えられました日課とそれに続く御言葉には3つの出来事が書かれています。
1つ目と3つ目の出来事に注目しつつ、「招かれる者」とは誰かを考えてまいります。
まず、初めのエピソードは、マタイによる福音書9章9-13節。
イエスが5人目の弟子を召される場面です。
4章で4人の漁師を弟子とされて以来の弟子を召される場面でありますが、これ以後、ほかの弟子たちの召命物語はヨハネ福音書以外にはありません。
9節、
《イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。》
イエスの初めの弟子たちは12人であったとされますが、弟子の召命物語が5人目までしか書かれていないのは、この5人目のことこそ書きたかったのだと推測します。
そうでなければ、12人それぞれがイエスの弟子となるエピソードが記録されてもおかしくないことです。
5人目の弟子は徴税人でありました。名はマタイと記録されていますが、最初に書かれた福音書であるマルコでは、5人目の弟子の名はレビとされています。
しかしながら、マルコの弟子のリストにレビの名はありません。
そこで、マルコに遅れて出されたマタイ福音書では弟子のリストに従い、マタイという弟子の召命物語として、マタイ福音書が整えたのであろうと考えられます。
ルカ福音書19章に、徴税人の頭であるザアカイがイエスと出会う話がありますが、それに対し、この5人目の弟子は雇われの徴税人であるようです。
なぜならば、徴税人マタイはイエスの呼びかけに対し、直ちに徴税の仕事を捨てて従っているからです。
徴税の仕事はローマから徴税権を買い、その投資額を上乗せして徴税するという、資産家しか持てない権利でありました。
10節、
《イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。》
マタイの家でありましょうか、彼がイエスや弟子たちと囲む食卓に徴税人や罪人が大勢やってきて同席した、とあります。
しばしば、徴税人と罪人は同じものとして扱われますが、徴税の仕方がユダヤでは禁じられている高利貸しであり、徴税人は罪人同然と見られておりました。
11節、
《ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。》
この問いは、ファリサイ派というユダヤ教の厳格な一派の考え方だと言うのではなく、イエスの弟子たちも同じ思いであったことでしょう。
最初の4人の弟子たちにとっては迷惑な話です。客を招いての食事風景の見物人から見れば、弟子たちもまた、徴税人や罪人と同じものと見られたのですから。
弟子集団にとって、この5人目の徴税人マタイは、招かれざる者であったのでしょうか?
12節、
《イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》
とイエスは教えられています。
イエスのお言葉によれば、徴税人や罪人は招かれざる者どころか、イエスがお招きになった者たちであるというのです。
では、徴税人が弟子に加えられることに違和感をいだいた弟子たちが招かれざる者かと言えば、そうではなく、4人の弟子たちはすでに招かれた者として数えられています。
すると、ファリサイ派の者たちが招かれざる者たちなのか?
そうではなく、神の前に自分の罪を認め、悔い改める者はすべて招かれた者たちでありましょう。
次に3つ目の出来事を18節から見てまいりましょう。
《イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」》
と始まります。
19節、
《そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。》
ある指導者の娘について、「たったいま死にました」と報告を受けたイエスは、直ちに立ち上がり、死者の元へと向かわれます。
生きている者のためのみならず、死んだ者に対してもイエスは立ち上がられます。
これが「いつくしみ」また「あわれみ」という深い愛でありましょう。
あるものを愛するだけでなく、失ったものをも惜しみ、尊ぶ姿にイエスの力強さと温もりを感じます。
「たったいま死にましたから、手を置いてやってください」とひれ伏して申し出る危急の報告と、直ちに娘が横たわる家へと向かわれるイエスの緊迫感が伝わってまいります。
ところが、
20節、
《すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。》
という予期せぬ出来事にイエスたちは遭遇します。
他の福音書の並行箇所によれば、イエスはご自分から力が出たことに立ち止まられます。
12年もの長きにわたる病いとは、多くの医者にかかり、費用ばかりがかさみ、しかも病気は治らない苦悩がうかがえます。
また、出血のある病気は人々との交流を絶たれるものでした。
急ぐ様子のイエスたちを立ち止まらせる出来事でした。
病人は、これまでの絶望感にとらわれつつも、イエスのうわさを聞きつけ、イエスによる「これから」に希望をいだいています。
「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」という信頼に、病人の希望があらわれています。
22節、
《イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。》
イエスは彼女を見て、その場で癒されます。すでに彼女を見た時、社会から隔絶されていた病人にとっては、社会的にも癒されたと言えます。同時に、体も癒されました。
再び先を急ぎ、ようやく到着したイエスたちです。
23節、
《イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。》
イエスは少女の死を「眠り」とおっしゃり、人払いをされます。
当然のことながら、人々はイエスを嘲笑しています。
25節、
《群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。》
この出来事はイエスによる奇跡であり、病気の癒しです。
そして、私たちの理解は求められてはいません。
ある指導者がその信仰によって見たもの、12年間病気であった人が、イエスの慈しみによって賜ったものでありました。
この一連の出来事に「招かれざる者」がいたでしょうか?
イエスがヨハネの弟子たちと話しておられる最中に飛び込んで来た、ある指導者でありましょうか?
指導者と共に娘が眠る家へ急ぐイエスに触れ、立ち止まらせた病人でしょうか?
あるいは、指導者の家でイエスを嘲笑した、笛を吹く者たちや騒いでいた群衆でしょうか?
反キリスト者たちにとっては、起き上がった娘こそ、招かれざる者であったことでしょう。
25節、
《このうわさはその地方一帯に広まった。》
とあるように、人の口を閉じさせることは出来ません。
彼らもまた、ユダヤの宗教者たちにとっては招かれざる者でありました。
しかし、神の国に招かれざる者など一人もいません。
12節、
《イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》
とはイエスの御言葉。
御言葉に悔い改め、キリストに希望をいだく者は皆、招かれているのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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