2025.10.05説教「一粒の種」

聖霊降臨後第17主日

「一粒の種」

 

ルカ17章5-10

◆赦し、信仰、奉仕

 17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。

 17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、

 17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

 17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。

 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。

 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。

 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

 本日与えられました御言葉は、ルカによる福音書17章5-10節となっています。

 まず、5節を見ますと、

《使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき》

と始まります。

本日は、この弟子たちの「信仰を増してください」との言葉を取り上げ、信仰について、とりわけ聖書の言う信仰について考えてまいります。

 

弟子たちは「信仰を増してください」と願っておりますが、私たちが交わす信仰についての会話でよく聞く言葉は、信仰が浅いとか深いとか、固いとか柔らかいとか、また、信仰歴が長いとか短いという表現があります。

実際、多くの方々がそのようなイメージで信仰というものを捉えておられるからでありましょう。

では、信仰が浅いとは、どのような状態や様子を指すのでしょうか。

浅いとは、薄っぺらいということなのでしょうか。

ここで、イエスが語られた例え話から聴いてまいりましょう。

 

ルカ福音書8章5節以下に「種を蒔く人」の例えがあります。

《「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。

ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。》

と語られています。

 この説明も、続けて語られます。

8章12節から、

《道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」》

とありました。

 信仰が浅いとは、石地に落ちた種に例えられるものでしょう。

《石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。》

とある通りです。

浅さとは信仰の根っこの問題であるようです。

《芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。》

とも語られていますが、信仰において、人を潤し、魂の渇きを癒す「水気」を考えれば、「聖霊と御言葉」と言えるでしょう。

 これに対し、深い信仰というものがあるのでしょうか。

ここでは「良い土地に落ちた種」ということになりましょうか。

《良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。》

とあり、「御言葉を聴き、忍耐して実を結ぶ人たち」として生きる姿勢が示されます。

 

「茨の中に落ちた種」の説明も印象的です。

《ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。》

その説明には、

《そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。》

とありました。

 信仰という種の芽を出させないもの、その成長をはばむものは、思い煩いや苦しみ、不幸などという、人にとって悪いものばかりとは限りません。

 説明では「富や快楽」が取り上げられています。

人を楽しませるものもまた、信仰の芽生えを覆いふさぐものとなり、実が熟するまでに至らせないと、イエスは忠告しておられます。

 ここまで、私たちの立場から・私たち人間の側から信仰というものを考えてまいりました。

これに対し、神の側からの人の信仰というものもあるのです。

 

本日の、ルカ17章6節を見ますと、

《主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。》

と、イエスから語られています。

これは、「信仰を増してください」と願う弟子たちに対しての応答です。

 イエスは、人の信仰を「からし種一粒ほどの信仰」でもあればと表現されました。

 この「からし種」というものを皆様はご存じでしょうか。

 種はコショウの粒ほどの小ささでありながら、鳥が宿るほどの木にまで成長する植物です。

 イエスは、人に芽生え、育ち、実りをもたらす信仰を例えるにあたって、からし種という、どの種よりも小さな種を選ばれました。

 このコショウの粒ほどの種に信仰を例えるならば、もはや私たちがよく言う、浅さや深さなどの表現には値しない小ささです。

 むしろ、ここで問われていることは、信仰が、有るか、無いかということでありましょう。

 信仰が有れば、聖書が語るすべてのことを見るでしょうし、信仰が無ければ何も知らされることは無いのです。

 人に信仰が無ければ、何も起きないのではありません。

信仰が無ければ、この世界のいずこにも神の出来事を見極めて知ることがない・知らされる機会がない、と言うことができるでしょう。

 

ところで、この信仰というもの、正しく言うならばキリスト教信仰というものは、初めから聖書に書かれていたものというだけでなく、歴史の中で育てられてきたものでもあります。

別の言い方をすれば、神学ということもできるでしょう。

旧約聖書が示す神の裁き、

福音書が告げる赦し、

使徒書が伝える信仰。

 それぞれ、歴史的な役割があり、その時に神から受けた使命がありました。

 イエスによって種まかれ、十字架ののち、弟子たちの時代となって育つこととなった信仰について、伝道者パウロは次のように述べています。

Ⅰコリント3章6節、

《わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。》

と、まかれた信仰の種の成長について語ります。

 そしてパウロは、信仰が目指すところのキリストの愛について、次のように表現しています。

エフェソ3章18節以下、

《また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。》

と。

 信仰が目指すところであり、信仰の実りでもあるキリストの愛についてパウロは、愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかと、信仰と愛を考える上でのスケール・ものさしを提供しています。

 まず、愛の広さについて。

これはキリストの愛が博愛と言われる通り、誰でも・誰に対しても・世界のすべての人々に向けて開かれたものであり、伝えられるべきものであるということです。

 次に、愛の長さについて。

これは、いつまでもということであり、特にキリストに在っては死を越えてもということです。

また、これまでも、今もあるものであり、これからのちも変わらぬものであるということです。

 次は、愛の高さについて。

これは極めて高いという至高・孤高の愛であり、これ以上の愛はない極みを示すと同時に、山の頂が一点であるように、唯一無二の愛すなわちキリストの愛を表します。

 4つ目は、愛の深さについて。

これは、痛むほどに、そして命を賭してということであり、陰府の底・塵の上に立つほどにという深みを意味します。

また、愛の広さがすべての人々に開かれていたことに相反するかのように、一人の人に徹底的にという深さを示しています。

深い信仰とは、このようなものでありましょう。

 これは人が同時に果たすことはできない課題です。

みんなを受け入れることと、一人に深く関わることとは両立できない働きです。

一人が一人に深く関わりつつ、教会全体として多くの人々を受け入れられるならば、この愛を果たせるかも知れません。

 

本日は、「信仰を増してください」と願う弟子たちの言葉を通して、信仰を測る様々なスケールを見てまいりました。

 しかし、イエスの問いかけは、からし種一粒ほどの信仰が有るならば、底も厚みも無いような信仰であろうとも、有るか、無いかで、人生も来世も激変する問いであることを聴きました。

 

 最後に、ヤコブとパウロが、それぞれ見える信仰、見えない信仰を問う言葉を語っています。これを聴いて終わりに致します。

まず、ヤコブの言葉から。ヤコブの手紙1章22節より、

《御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。》

ヤコブ2章15節、

《もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。》

 パウロは、ローマの信徒への手紙3章26節において、

《このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。》

エフェソ2章8節、

《事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。》

と、それぞれの場面で述べています。

 人のいだく信仰はからし種ほどのもの、そこには深みも長さもない粒があるのみですが、しかし、神はこの粒を見過ごさない神でおられます。

たとえ一粒の信仰であろうと、ここに信仰が有ることを見逃さない神によって、私たちが信仰に生かされるとは素晴らしい。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」