2025.10.19説教「あきらめない」

聖霊降臨後第19主日

「あきらめない」

 

ルカ18章1-8

◆「やもめと裁判官」のたとえ

 18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

 18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

 18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

 18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

 18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

 18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

 18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。

 18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」

 

本日与えられました御言葉は、ルカによる福音書の18章1節から8節です。

 

聴きました福音書の印象は、まさに「不誠実な裁判官」といったものですが、これはイエスが弟子たちに語られた例え話です。

イエスが、この例えをお話しになった目的が書かれています。

18章1節、

《イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。》

とあります。

 目的は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」でありました。

 

 また、本日読んでいただきました旧約聖書や使徒書は、福音書に合わせて同じ主題で選ばれておりますから、そこも振り返ってみましょう。

 旧約聖書の日課である創世記32章23節以下を見ますと、「ペヌエルでの格闘」と小見出しに在りますように、アブラハムから始まるイスラエルの父祖3代目にあたるヤコブと、御使いと思しき者の格闘の場面でありました。

 創世記32章27節に、

《「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」》

とありましたように、ヤコブは夜通しの格闘において祝福に与かるまではあきらめなかった姿が伝えられています。

これが、福音書の「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことと重ねられている主題でありましょう。

 また、この創世記の箇所は、それまでのヘブライ民族がイスラエルと名乗ることになるエピソードでもあります。

 イスラエルとは「神の支配」という意味ですが、ヤコブが祝福として授かったものこそ、イスラエルという名でありました。

 

 使徒書の日課であるテモテへの手紙第二の4章2節を見ますと、

《御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。》

とあります。

 この「忍耐強く」という勧めが、福音書の主題と重なるところでありましょう。

 また、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」とは、いつの世もキリスト者が心に留めてきた御言葉ですが、伝道に楽な道などなかったことでしょう。

 このように、本日の主日の主題を振り返りますと、「不誠実な裁判官」という第一印象は退き、「気を落とさずに祈る」というイエスの勧めの言葉・励ましの言葉が見えてきます。

「気を落とさずに祈る」とは、どういうことでしょうか。

「気を落とさずに」とは、あきらめず、忍耐強く、失望しないで希望を持って、ということでありましょう。

 私たちが毎週の礼拝の中で、最後の派遣の祈りにおいて、「私たちを希望と忍耐と勇気で満たし」と神に願い求めていること、そのものです。

 

「気を落とさずに祈る」ことのために、イエスは「不誠実な裁判官」の例えを語られました。

 ルカ福音書18章2節、

《「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。》

と例え話は始まります。

「神を畏れず人を人とも思わない」とは、また大胆不敵な裁判官という設定です。

 3節、

《ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。》

と、身寄りのない社会的に無力な人が登場します。

そして、絶えず裁判官の所を訪れては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と懇願するのです。

 ところが、この裁判官の言いぐさは、

4節以下、

《裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」》

というものでありました。

 例え話を終えたイエスは、弟子たちに次のように説明されています。

6節以下、

《それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。》

と記されています。

 この例え話とイエスによる教えの骨子は、こうでありました。

 身寄りのない困窮した人が絶え間ない懇願によって、不誠実な裁判官であろうとも彼女の権利を取り戻すための裁判を起こさせた。

だから、神に属する者である弟子たちには、公正な審判者である神に対して祈り、期待することはふさわしいということです。

 ましてや、イエスが弟子たちに教える祈りの中心にあるものは、決して彼らの権利の回復ではなく、来るべき神の国における神の正義であるのですから。

 困窮というものが、人々に待ち望む心を起こしていることから考えるならば、祈るということは無くてはならぬものでありましょう。

 イエスが、この例えを通して弟子たちに教えようとされたことは、あきらめずに祈るということでありましょう。

 その点で、もし神の国の訪れを待ち望む祈りが弟子たちの間で絶えてしまうならば、神の国の訪れを待っている彼らの備えも終わってしまうことになります。

こうなると、神の国が訪れる時には、それは弟子たちに対する救いではなく、裁きとなってしまうのです。

 

 宗教改革者マルティン・ルターが、1519年に書いた「主の祈りの講解」という書物の中で、次のように述べています。

《私たちは「愛する父よ、あなたの御国に私たちをおもむかせてください」とは祈らない。それではまるで、私たちが御国に向かって走って行かなければならないようだ。私たちの祈りは、「あなたの御国が、私たちに来ますように」である。》

 実際に、ここにいる私たちもまた、礼拝での主の祈りを通して、「御国が来ますように」と祈るのです。

 

「祈り」というものについて、一つのエピソードをご紹介します。

 ニューヨーク大学医学部のリハビリテーションセンター受付の壁に、「苦難にある者たちの告白」―ある患者の詩―が掲げられているといいます。

作者不明ですが、ベトナム戦争の戦傷者、あるいはもっと以前の南北戦争の傷病兵の作とも伝えられています。

 

大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに

よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに

賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに

神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、

心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

という、病人の祈りであります。

 これまで個人的な権利の回復の祈りとして記憶しておりましたが、今回改めて読み返してみて、個人的な願いがすべて神の心の顕れに変えられていることに気づきました。

この祈りに、神がこの病人を引き受けておられることを感じました。

 困窮ゆえの個人的な権利の回復の祈りが礼拝となることはありませんが、御国が来ますようにと私たちが祈る時、その祈りは礼拝となるのです。

 祈られていた者が祈る者とされることがキリスト者となることのように思われますが、私自身はキリスト者としての年月を重ねるごとに、祈っていた者が祈られる者とされて行くことを感じています。

また、祈られることを有難く思う心が増し加えられています。

 パウロも、激しく祈る者でありましたが、伝道者としての歩みの中で、祈る者から祈られる者へと変えられていきます。

パウロの晩年と思われる一節を見るならば、

 ローマの信徒への手紙15章30節、

《兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください》

とある通りです。

 

神は懇願する者を待たせることはなさらないゆえに、「あきらめないで祈る」ことを聴いてまいりました。

 また、救いを待たせることはなさらない神は、裁きもまた、待ったなしで訪れるものであろうことも知らされます。

ゆえに、神と向き合うことには緊張感があります。

 先ほど申しましたように、弟子たちが祈ることを断念したとき、それは救いの訪れとしての神の国到来の福音は翻り、たちまち裁きとして弟子たちにも私たちにも降りかかるものでありましょう。

 ゆえに、私たちは礼拝での教会の祈りにおいて、「希望と忍耐と勇気」を神に求めるのです。

何よりも、キリスト者は、キリストご自身による祈りによって神に執り成されている者であることを覚えたい。

 それによって、キリストは私たちにあきらめてはおられないことを知らされてまいりましょう。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」