2025.10.26説教「胸を打つ祈り」
宗教改革主日
「胸を打つ祈り」
ルカ18章9-14
◆「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように」
先週に続き、今週も祈りの教えです。
ルカによる福音書18章9節、
《自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。》
と始まります。
ここでイエスは、「自分は正しい人間だとうぬぼれている人々」に対して、例え話という形で語りかけておられます。
10節に話の前提が示されています。
《二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。》
ファリサイ派の人々は、聖書の登場人物としては常連であり、いつもイエスを問い詰めつつも、しっぺ返しの目に合っている、ユダヤ教の厳格な宗教指導者たちです。
もう一人は徴税人、この人も聖書に取り上げられる人物としては常連です。
これら二人は、ユダヤ人を代表する大きな二つのグループでもあり、エルサレム神殿の前庭で祈る二人の姿が生き生きと伝えられる話となっています。
そして結論は、だからファリサイ派の祈りはダメで、徴税人の祈りのほうが認められたという簡単な話でもないのです。
日本においても世界的に見ても、祈りの起源というものは定かではありませんが、そもそも祈りとは、誰に教えられなくても、人が生まれ持った資質や傾向のように思えます。
一人のクリスチャンではない知人は、お地蔵さんの前にさしかかると素通りすることが出来ず、必ず立ち止まって手を合わせるといいます。
特に自分の宗教を決めているわけではないけれども、やはり手を合わせてしまうというのです。
また、立ち止まって手を合わせている人を見かけたならば、誰でも「何をしているのだろう」とは思わず、「あ!祈っているのだ」と分かります。
このように、自分自身が信仰者であるか無神論者であるかに関わらず、人間は宗教的な感性を持ち合わせた存在であると思えます。
日本でもかねてより、お百度を踏んだり千度参りをしたり、人知れず熱心に捧げてきた祈り・求める人にとっての悲願というものの足跡が今に至るまで保存され、伝えられています。
そこには、熱い魂の歴史というものを感じさせられます。
さて、本日の例え話では、神の国を建て上げ、また前進させようとするものすべてが神に喜ばれるわけではないことが教えられているという点で、イエスによる新しい枠組みが示された、新しい例え話であると言えます。
新約聖書らしさでもあります。
しかしながら、当時の敬虔なユダヤ人たちが律法を正しく守ることによって神の国への道をたどることが出来ると考えていたことを知っておく必要があります。
11節以下を見ますと、
《ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』》
と、ファリサイ派の信仰について語られています。
ファリサイ派は、ユダヤ教の中では少数派でありましたが、復活信仰を強くいだいていた点では、キリスト教信仰に一番近い信仰者たちでありました。
そして、例え話に登場する、この人物のファリサイ的な敬虔な信仰生活は、ズバ抜けたものであることは言うまでもありません。
新約聖書の手紙の多くを書いた伝道者パウロもまた、キリスト信仰に改心するまではファリサイ派の宗教者でありました。
それまでの自分自身について、次のように述べています。
フィリピの信徒への手紙3章5節以下から見ますと、
《わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。》
と告白しています。
まさにファリサイ派とは、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない」ことを自負する、正しい人々であったのです。
ある議員がイエスを訪ねて来た時のこと、
ルカ18章20節、
《『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。》
とも記されています。
また、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」という信仰生活の様子も描かれています。
多くの戒律を有するユダヤ教とは言え、週に2度断食する規定はどこにもありませんが、熱心な人々の間では習慣となりつつあったことがうかがえます。
例えば、ルカ5章33節では、
《人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」》
と記されています。
そこで、ファリサイという生き方を誤解しないように理解しておきたいことは、彼らは何のために、週に二度も断食していたのだろうか、ということです。
ファリサイ的な生き方とは厳格な律法順守であり、自発的な禁欲生活という償いをしなくてはならない理由はなかったからです。
では、なぜ彼らは断食をしていたのかということについて、聖書の研究者たちによれば、それは民の中の罪ある者の罪を贖おうとする、すなわち神の赦しに執り成そうとする願いからの行為と習慣であったというのです。
これには驚かざるを得ません。
福音書では、しばしばイエスと対立しているがゆえに、ファリサイとは利己的な集団に見えてしまいます。
しかし、彼らもまた、熱心に民の罪を贖おうとする宗教指導者でもあったということです。
さらに、「全収入の十分の一を献げています」ということでしたが、これも民の罪を贖おうとする願いからのものと思われます。
というのは、十分の一献金・十分の一税という規定はあったものの、農民も商人もファリサイほどには守られていない社会背景であったからです。
本来納めるべき十分の一税が納められなかったものを買ったり使ったりすることにより、律法に違反する危険にさらされると考え、十分の一税の対象物を買ったときには、もう一度十分の一税を納めるという義務を自分たちに負わせていたとされています。
これもまた、納めぬ者たちの罪の贖いというものでありましょう。
にもかかわらず、イエスはこのファリサイの祈りを顧みることをなさらないのです。
そこには、他に重大な問題があったのです。
他方、徴税人は、神の前に誇れるものなど何一つ持たないのです。
13節以下、
《ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』》
当時の徴税はローマのためのものであり、また、ユダヤ法で禁じられていた不正な取り立てを行っていたことは明らかです。
神殿から遠くに立ち、目を天に上げようともしない態度から、彼は自分の罪を自覚していたことがわかります。
しかし、彼は疑いつつも、神の憐れみを懇願するのです。
このように自らを打ちたたきながらの哀れな祈りを私は知りません。
彼の生きる痛みが伝わります。
そして、自らの振り返りにより、無条件で神を義(正義)としています。
これがファリサイの祈りとの分かれ道となりました。
神は御自分に依り頼み、神の前で自らを無価値として低める者に対して、その人の価値を高めておられます。
14節でイエスが語られた通りです。
《言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。》
とある通りです。
パウロもまた、フィリピ3章7節で次のように続けています。
《しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。》
とあります。
このことは、ファリサイの、神の赦しは償いなしには与えられないという主張と決定的に対立します。
神と人間の関係において、罪と償いと赦しを計算しようとするファリサイの態度をあぶり出す例え話でありました。
神の前で・神を相手に、償いで取引しようとする人間は、とんだ計算違いをすることになります。
イザヤが告げた通り、《わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人》であったのですから。
ここで、神に義と認められた徴税人に比べて、ファリサイ派の人々が罪に定められた人として取り上げられていたわけではないのです。
神との関係において、自分の義としての正しさを根拠とするならば、当然の結果として、そこでは喜びの欠如を伴うのです。
イエスは、この例えを「語る」ことによって、神の義・義なる神がおられると「証言」なさいます。
神が義であることの根拠は、このキリストとしての証言にあります。
イエスが来られなければ、そして、ここにおられなければ、正しい者にとっても不義な者にとっても、神に喜ばれる生き方など起こり得ないということです。
パウロはフィリピ3章9節以下で、次のように締めくくっています。
《わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。》
とキリストを証言するのです。
もし、すべてが徴税人のように為す術を持たないならば、世界は止まってしまうではないかと、正しい人々は問いを発することでしょう。
これに、ルカ福音書はすでに答えておりました。17章9節以下、
《命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」》
とありました。
キリスト者の祈りは何のためか。
それは、すべきことを忘れず、すべきことを祈るためにある、と言えましょう。
では、すべきこととは何か。
ルターによって世界の宗教改革へと至らせた「すべきこと」とは、悔い改めであったと知らされます。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
.jpeg)
