2025.11.9説教「神のカタチ」
聖霊降臨後第22主日
子ども祝福式
「神のカタチ」
ルカ20章20-27
◆皇帝への税金
20:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
20:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
20:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
20:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
20:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
20:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
20:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。
マタイ22章15-22
22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日の御言葉は律法と言われるユダヤ教の視点から「税金問題」を扱っております。
ルカ福音書20章20節は、
「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」
と始まります。
彼らはイエスの言葉尻を捉えて罠に掛けるために遣わされた者たちでありました。
21節、この企む者たちは、まずイエスを褒めています。
そして22節、企む者たちの「お膳立て」が済み、いよいよ議論が始まります。
「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」と。
この問いの意味するところは、こうです。
「税金を納めるべき」と答えるならば、取り囲んでいたユダヤの民衆から罵倒されてしまいます。
なぜなら、民衆はローマ帝国による支配と税金の搾取に反感を抱いていたからです。
他方、「納めるべきではない」と答えるならば、これをローマの総督に告発し、イエスを捕えることができるのです。
どちらに転んでもイエスに非のある、巧妙に仕組まれた罠でありました。
公衆の面前でイエスに求められていたのは、民衆の期待に応えて論破することでありましたが、しかし、YES、NOで答えられるものではなく、あいまいに出来るものでもありませんでした。
当時、ユダヤ社会では、民衆には二重の税が課せられておりました。
ローマに納めるべき税には、人頭税のほか、街道を通行するための通行税なるものもありました。
これらはローマの通貨で支払われました。
他方、神殿に納めるべきものとしては、ユダヤの律法で定められた神殿税があり、また日ごろの参拝時に賽銭箱へ入れる献金も必要でした。
これらには、ローマ通貨が不浄のものとされていましたから、ユダヤの通貨が用いられました。
それゆえ、神殿の境内では、ローマ通貨とユダヤ通貨を交換するための両替商が露店を構えていたのです。
当然、両替商は手数料を取るわけですが、利益の一部はユダヤの当局者たちへと納められていたわけです。
このような実態から、ヨハネ2章13節以下にある、イエスによる宮清めの場面を思い起こされることでしょう。
さて、マタイ福音書22章18節の並行箇所を見ますと、「税金問題」を投げかける論客たちの企みを、イエスは「悪意」と捉えておられます。
そして、この企む者たちを「偽善者」と呼んでおられます。
「悪意」とは「悪魔の意図」であり、「神の意志」に敵対する考えです。
「悪意」を考察するために、ルカ4章6節の「荒れ野の誘惑」のエピソードを見ますと、
「そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ』」
とあります。
すなわち、「悪意」とは、「この世の論理」とも言うことができるものです。
また、「偽善者」とは、「善」は「神」を表す言葉ですから、「偽の善」とは「神と似て非なるもの」ということになります。
本日のルカ20章24節で、イエスは論客たちにローマへの税金に納める通貨を見せさせ、通貨に刻まれた肖像と銘を問われました。
論客たちは、「皇帝のものです」と答えます。
25節で、イエスは一気に税金問題へと答えられます。
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
と。鮮やかな逆転劇です。
26節、論客たちは沈黙するほかありませんでした。
なぜなら、イエスをおとしめようとした問いが、彼ら自身へと降りかかって来たからです。
デナリオン銀貨を「皇帝のもの」と答えることにより、ローマへの税を肯定する構図となった彼らは、民衆の反感を怖れ、黙するほかはなかったのです。
これで、税金問題は解決されたように見えますが、イエスが切り返された、もう一つの問いである「神のものは神に返しなさい」については課題として残されています。
そこで、創世記1章27節を見ますと、人間が創造された由来について、
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」
とあります。
人間は「神にかたどられた」
人は「神の似姿」である、とされています。
私たち人間の何をもって「神の似姿」と言えるのでしょうか。
あなたならば、自分の何をもって「神の似姿」としますか?
Ⅱコリント書の4章4節に、次のような言葉があります。
「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」
この世の神が人々の目をくらます、とあります。
「この世の神」とは「悪意」であり、「この世の論理」「この世の権威」のことでありましょう。
聖書が伝える「神の似姿であるキリスト」は「苦難の僕」です。例えば、イザヤ53章2節以下では、
「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている」
という姿が伝えられています。
その通り、私たち人間に映し出された神の似姿は「弱さ」に隠されている。
人間の弱さにこそ神の栄光は顕れ、人間の弱さをもって神に栄光を帰すのです。
(権威や力は、この世だけを任された「悪意」であるサタンの領域に過ぎないのです)
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
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