2025.12.14説教「マタイのクリスマス」

待降節第3主日

「マタイのクリスマス」

 

マタイ1章18-2章12

◆イエス・キリストの誕生

 1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

 1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

 1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

 1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、

 1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

◆占星術の学者たちが訪れる

 2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

 2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

 2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

 2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

 2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

 2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

 2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


「私たちの神と主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように」

 

次週に降誕祭・クリスマス礼拝を控え、本日の礼拝は聖書の箇所を代えてマタイ福音書が告げるクリスマス物語を眺めてみたい。

というのも、本日の聖書は先週の洗礼者ヨハネのお話に続けて、今週も洗礼者ヨハネについて読むこととなっていたからです。

 

私たちがこれまで多かれ少なかれ、教会で最も多くのメッセージを聴き、心に残っているお話は、クリスマスについてではないでしょうか。

すなわち御子の誕生という厳かで不思議な出来事を、繰り返し聞いて来たことになります。

聖書の御言葉とは、絶えず新しい気持ちで聴くことにあるが、それも至難の業です。

 

本日は「マタイのクリスマス」として聴いてみましょう。

そうすると、次週の降誕祭は「ルカのクリスマス」ということになります。

そして、イブ礼拝では、「みんなのクリスマス」と題して考え、聴いてみるということになるわけです。

「マタイ」というのは、もちろんマタイによる福音書を書き記したマタイさんのことです。

マタイの告げるクリスマスの出来事として、マタイによる福音書1章18節から2章12節を読んでまいります。

マタイによる福音書の特徴は、ユダヤ教徒をキリスト教徒に改宗させることを目標として語られています。

ユダヤ教と向き合うのですから、そこに描かれているのは、偉大なる教師としてのイエスと立派な弟子たちとなります。

そして、マタイの告げるクリスマス物語の中心人物は、御子イエスの父とされた「ヨセフ」ということです。

 

では新約聖書の1ページをご覧ください。

 新約聖書の1ページ目を開くことは稀ですが、信仰を問わず、これから新約聖書を読んでみようと思い、読み始めた人々には最初に書かれている系図が難関となっていることは事実です。

 新約聖書には二つの系図が納められています。

一つはこのマタイ1章の系図で、もう一つの系図はルカによる福音書3章の終わりに記されています。

 同じように見えても、ルカの系図はイエスに始まり、アダムまでさかのぼり、「そして神に至る」となっています。

また、「イエスはヨセフの子と思われていた」という記述も興味をひきます。

 マタイの系図は、イスラエルの歴史的父祖と言われるアブラハムから始まり、イエスに至るものです。

 系図の中心人物はダビデであるとも考えられています。

神がダビデになされた約束の流れが「系図」とも言えましょう。

このように、家系・血縁というものを重んじ、国民として純血であるかのように豪語するユダヤ人ですが、マタイの系図によってユダヤ以前のイスラエルの系図をたどりますと、少なくとも4人の外国人妻の名前が認められ、その貢献によって、このアブラハムからの系図が成り立っていることがわかります。

 それゆえ、これは意義ある記録であると言えます。

 

外国の占星術の博士たちの訪問も、ヘロデ王の宮殿でのユダヤの学者たちによって「約束の御子」の生誕地が外国人らに告げられるというユダヤを優位に置きながらも実際の訪問は外国人だけだったという物語とされています。

外国に対して排他的であると思われる古代イスラエルそしてユダヤですが、キリストの十字架により救いの順序が転じ、ユダヤ人に優先して異邦人が救われて行く出来事は、すべての人々に対する神の救いが、いにしえより働いてきたことのしるしであると言えましょう。

 

 さて、そこでユダヤ人にとって重要であることは、神の約束の成就として、メシア(救い主)はダビデの家系から生まれなければならないということでした。

これはマタイによる福音書が、他の福音書よりも強調していた点でもありました。

これがマタイの告げるクリスマスの主張点です。

 

1章18節、

《イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。》

と始まります。

 福音書は、神の子イエスの誕生から始まるものだということではありません。

 最初に書かれたマルコによる福音書には、イエス様の誕生物語はありませんでした。

洗礼者ヨハネの話から始められています。

 マタイはマタイのクリスマス、それはヨセフ物語であり、東の国から博士たちが新しい王との謁見に訪れた話です。

 ルカはルカのクリスマス、それはマリアの物語であり、家畜小屋で生まれた御子イエスの誕生を羊飼いたちが祝いに来た話です。

 ヨハネはヨハネのクリスマス。

洗礼者ヨハネについて語りつつも、光として訪れた神の言葉・ロゴスというものを示しました。

 

 18節、

《母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。》

とあります。

 マリアの婚約者ヨセフには、マリアが「聖霊によって身ごもっている」という事実が伝えられます。

 19節、

《夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。》

とヨセフの心境が記されています。

 ヨセフは「正しい人」であったといいますが、「正しい」とは、神に対しても、人々に対してもということでありましょう。

 誰もが自分なりの正義感、自分なりの信仰感は持っていますがそうではなく、神から見ても人々から見ても、「正しい人」であることが認められるということでありましょう。

 ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず」とあります。

レビ記を参照すると、マリアに起こった出来事は死罪にあたると思われます。

 最初に見ましたマタイの系図の1章3節に、「タマル」という女性の名がありました。そのタマルのエピソードを見ますと、創世記38章24節に、

《三か月ほどたって、「あなたの嫁タマルは姦淫をし、しかも、姦淫によって身ごもりました」とユダに告げる者があったので、ユダは言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」》

というくだりがあります。

 ヨセフにとって身に覚えのないマリアの受胎は世間の目から見れば等しく扱われる可能性がありました。

マリアを不憫に思うゆえか、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。

 ここに、ヨセフの正しさによる「決心」が書かれていました。ヨセフ自身の全身全霊による葛藤というものを覚えます。

ヨセフは身が裂かれるほどの痛みを負ったのではないかと想像します。

「決心」とは、どのようなものであるでしょうか。

単なる感情や、いっときの考えというものではないでしょう。

 人生の転機での決心、洗礼を受ける決心、結婚する決心、離婚する決心、子を持つことへの決心、責任を引き受けることの決心など、人生には様々に決心することが求められますし、私たちはそれぞれに、その時その時に決心して来たのではありませんか?

 そのように、ヨセフも断固たる態度で決心したのです。

葛藤と痛みの末の決心であり、簡単に覆せるものではないでしょう。

 20節、

《このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。》

とあります。

 ヨセフに対して、天使のお告げがありました。ヨセフの葛藤と、その痛みとを強いるのは、ほかならぬ聖霊であるのです。

 

 天使は聖霊によって宿る御子の使命をも語ります。21節、

《マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。》

と。

  24節、

《ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。》

と、その後のいきさつが述べられています。

 ヨセフの決心はどこへ行ったのか。

 ヨセフは、なぜ決心をひるがえしたのか。

 ヨセフにマリアを受け入れさせたのは何か。

 

 このヨセフの変貌は、衝撃的です。

 どのようにして、これほどの決心を思い直すことが出来たのだろうかと。

 ヨセフは全身全霊で考え、葛藤の末、秘かに離縁することを決心したのです。

ヨセフの正しさにおける最善の策でした。

 にもかかわらず、ヨセフはその決心を翻したのです。

 何に立ち帰ったのか、どこに立ち帰ったのか。

 ヨセフは自分の力では、マリアに起こった出来事を引き受けることができなかったどころか、受け入れることさえできませんでした。

しかも、これが「正しさ」というものでありましょうか。

 戦う者が、抜いた剣を鞘に納めることは難しい。

 振り上げたこぶしを、自分で下ろすことも難しいものです。

 ヨセフは決心を翻しましたが自分の正しさには帰るところはどこにもなく、天使の告げる神の言葉に立ち帰ったのです。

 20節、

《ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。》

この天使の言葉に立ち帰ったのです。

 ヨセフはマリアを受け入れることはできませんでしたが、天使による神の言葉を受け入れ、天使の言葉によってマリアを受け入れたのでした。

 私にはできないけれども、私が立ち帰ることのできる御言葉があるならば、不可能も可能となることを教えられます。

 マタイのクリスマスとヨセフ物語。

それは、頑なな人間に対し、立ち帰るところ、立ち帰るものを持っているかと問う出来事でもあります。

 不可能を可能に変えて始まったクリスマスの出来事を通して、この困難な時代の行く末に、御子が来られたことを通して希望に立ち帰る者とされたい。

 

「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」