2025.12.28説教「命の書」
降誕節第1主日
命を奪われた幼子の日
「命の書」
マタイ2章13-23
◆エジプトに避難する
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
◆ヘロデ、子供を皆殺しにする
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
2:17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
2:18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
◆エジプトから帰国する
2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、
2:20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そ
こに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、
2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。」
本日は、降誕節第1主日、主日の別の名を「命を奪われた幼子の日」と申します。
この12月は何人もの信仰の友たちを神へと託すことになりました。
そこで、「命を奪われた幼子の日」をも心に留めつつ、神に託した命について、聖書はどのように語るのかを思い起こす時としてまいりましょう。
テーマは「命の書」と致しました。
キリスト教の死生観です。
本日与えられました聖書箇所は、主の降誕後、占星術の学者たちがユダヤの新しい王として幼子イエスに謁見した、その後の出来事として伝えられます。
まず、マタイ2章16節を見ますと、
「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」
とあります。
ヘロデの殺戮と言われる場面です。
この幼子たちの命はどこへ行ったのか。
子を喪った親たちの悲しみはどうされたのか。
もちろん、命を賜った神が引き受けられたと、キリスト者は受け止めます。
一人の幼子のために、多くの幼子が犠牲となったのでしょうか。
そうではなく、ヘロデ王は御子そのものの命を絶とうとした暴挙と殺戮に至ったのです。
また、この事件によって、ヘロデ大王は紀元前4年に亡くなっていますから、少なくとも紀元前6年がイエスの誕生年ではないかと言われる背景です。
私たちには多くの思いが渦巻きますが、命の主である神の御言葉から命の来たところ、行くところについて聴いてまいりましょう。
旧約聖書では、はっきりと聖書の来世観や死生観を語っているところは多くはありません。
数少ない来世観の一つが、ダニエル書12章3節です。
「目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」
この御言葉を読みますと、信仰をもって亡くなった方々が星となって輝いているように受け取れます。
美しい、夢のある描き方がなされています。
もう一つ、印象的な箇所があります。
エゼキエル書37章4節以下です。
《そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。》
まさに枯れた骨の復活が描かれていますが、骨に肉が付くだけではまだ生きているとは言えません。
霊が吹き込まれることによって、人が生きると告げられているのは、死者ばかりではありません。
私自身が旧約聖書の死生観で最も印象深く聴いております箇所は、ヨブ記19章25節以下の御言葉です。
「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。」です。
「わたしを贖う方は…塵の上に立たれる」。
「塵」とは「死というものの底」であろうと受け止めます。
「贖う方」すなわち、新約の時代に生きる私たちから見れば「キリスト」と言うことになりますが、「キリストは死の底に立たれる」という、このヨブの信仰告白ともとれる言葉に驚くと共に、感動を覚えます。
「死の底に立たれるキリスト共にキリスト者は復活する」という死生観がここに描かれています。
旧約聖書に代表される来世観・死生観を描く箇所は、以上のようなものであろうと思います。
教会の信仰告白である使徒信条の言葉では、
「そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。」
と書かれています。これはどういうことでしょうか?
まず、キリストは生きている者と死んだ者との主である、と記されている箇所を幾つかご紹介します。
使徒言行録10章42節、
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」
ローマ書14章9節、
「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
Ⅱテモテ4章1節、
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。」
Ⅰペトロ4章5節、
「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」
このように、キリストは生きている者の主であるばかりでなく、死んだ者の主でもあると記されています。
すでに死をくぐった者の立場では、死んだ者の主でもあるキリストに対して申し開きのしようもありません。
そこで、マルチン・ルターによる宗教改革運動の引き金となった「95ヶ条の提題」と言われる書物の中に、死とその後の世界についての興味深い論述があります。
14条:
死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになろう。
15条:
この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも充分に煉獄への罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきに最も近いからである。
17条:
煉獄にある魂にとって、おののきが減ぜられるに応じて愛が増し加えられるのは、必然のように思われる。
18条:
また、煉獄にある魂が、功績や増し加わる愛の状態の外におかれているということは、理性によっても聖書によっても証明されてはいない。
このように、ルターは「死へのおそれとおののきによって、すでに罰は受けたのであると述べ、《何人も》恐れが減じ、愛が増し加えられる外におかれるなど、聖書によっても証明されない」と語っています。
このことはルターによる慰めと救いのメッセージです。
このことをさらに深めようと、本日は「命の書」について聴いてまいります。
ダニエル12章1節に、
「しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。」
とあります。
使徒信条にある「そこから来て」という表現と、ダニエル書の「その時」とは、共に「最後の審判」と受け止めるのがふさわしいでしょう。
「その時」には、生きている者もすでに召された者も共に審判の座に立つことになる、というのが聖書の考えです。
ダニエル書には、救われる者の名前が記されているであろう「あの書」というものが登場します。
俗に言う「閻魔帳(えんまちょう)」のような印象です。
キリストの「救いのリスト」というものです。
私たち人間の救いに関わる「あの書」、実の名を「命の書」と申します。
「命の書」についても多くはありませんが幾つかご紹介しますと、
詩編69編29節
「命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べて/そこに書き記さないでください。」
フィリピ4章3節
「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」
黙示録3章5節
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。」
黙示録20章12節
「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
黙示録21章27節
「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」
このように見てまいりますと、命の書に名前が書かれている者は救われ、名前がない者は裁かれる、との印象です。
命の書とは救われるべき命の名が刻まれた書簡であるのです。
そこで、「命の書」は、どこにあるのでしょうか?
イザヤ書に興味深い記述があります。
49章14節以下、
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」
神がわたしを忘れないことのしるしとして、神は神ご自身の手のひらに、わたしを、わたしの名を刻みつけるとおっしゃいます。
神ご自身の手のひらにわたしが刻まれるとは、わたしにとってキリストの手のひらの十字架の釘跡にほかなりません。
救われる約束、救いのしるしであるところの、わたしの名が刻まれた「命の書」とは、キリストの御手である以外にはありません。
キリスト者にとっての「命の書」とは、釘で打ち抜かれた十字架の傷跡が遺るキリストの手のひらであったのです。
命の書はキリストと共にあるのです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます。」
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