2026.01.11説教「天が開く」
主の洗礼
「天が開く」
マタイ3章13-17
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
「私たちの神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように」
本日は「主の洗礼」を記念する礼拝です。
クリスマスに備えるアドベントの礼拝では「洗礼者ヨハネ」について聴きました。
その際、洗礼者ヨハネのもたらした「洗礼」の起源について考えました。
洗礼者ヨハネは、いったいどこから「洗礼」という形を信仰の出発点として考えるに至ったのだろうかと。
日本福音ルーテル教会では、次の新しい式文が採択されております。
この式文の神学・礼拝の捉え方によりますと、信仰の出発点となる「洗礼」の出来事を大切にし、「洗礼盤」を礼拝堂の入り口に置くことによって、「礼拝に参加するたびに自分自身の洗礼を思い起こし、改まって礼拝にあずかる機会とする」とされています。
洗礼者ヨハネのもたらした「洗礼」の起源について、聖書からの大きな理由としては、創世記が伝える「ノアの洪水」の物語が考えられます。
全地に神を神とも思わぬ人間の罪が溢れ、神は悔い改めに至らせる罰として全地を水で覆われました。
その時、神の言葉に従ったノア一族と種々の生き物を乗せた箱舟だけが生き延び、神はそこから全地を再創造されたというエピソードです。
その他に、洗礼者ヨハネの洗礼に至る流れを、イスラエルのエジプトから解放されてからの「荒れ野の40年」に見ることができるとの印象を私はいだいています。
それは、エジプトからシナイ半島へと紅海という海をくぐり、砂漠で渇いている時に岩からほとばしる水をくぐって潤され、最終的にヨルダン川の水が立ち上がり、その川底を歩いて約束の土地・カナンに導かれたヘブライの民たち。
このように、民は水をくぐるたびに「神の民」として取り戻されていった足跡から、「洗礼」という水に沈み・水をくぐる体験を通して、信仰者が神に養われる者として取り返され・回復されることは、ふさわしい象徴的な形であると思われます。
ノアの洪水の物語は、神による大地の呪いの終わりを告げる物でもありました。
かつてエデンの園は耕すことなく実り、命を養う園でありました。
しかしながら、土から創られたアダムの犯した罪により、神はアダムを園から追放し、耕さなければ実らない大地へと追いやられます。
のちに、アダムとエバには、カインとアベルという息子たちが与えられました。
ところが、カインは弟アベルへの嫉妬から彼を殺めた。
それゆえ、大地はさらに神の呪いを買い、耕しても実らぬ大地となるのです。
そこまで頑なにされた大地への神の呪いも、ノアの洪水により拭われていくのです。
さて、イエスの洗礼について聴いてまいりましょう。
そもそも、「洗礼」と訳される「バプテスマ」という言葉には「悔い改める」という意味は含まれず、単に「水に沈む」というほどの意味でありますが、現在の私たちにおける「洗礼」の捉え方は、神の前において自分の「愛を優先していない罪」を認め、その悔い改めの「しるし」として受け取っています。
これは、洗礼者ヨハネも、そのように呼び掛けていますから正しいことでありましょう。
では、なぜ、罪なき神の子が洗礼をお受けになるのか、という洗礼者ヨハネの問いについて、イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい」と答えておられます。
このやり取りの意味は難解でありますが、洗礼を求めて押しかけた人々は、ヨハネの前で悔い改めを告白して洗礼を受けていたことでしょうから、このヨハネとイエスとのやりとりもまた、告白としてプライベートに交わされた言葉であったと考えられます。
すると、イエスの洗礼も、大衆の一人として「正しいことが行われた」と見るのが自然でありましょう。
しかし、特別な出来事は、イエスが水の中から上がられた、その時に起こりました。
イエスに向かって、天が開き、聖霊が目に見えるように・手に取るようにくだったと福音書は伝えます。
以来、今日に至るまで、洗礼とは、悔い改めて水に沈み(あるいは、水を注がれ)、そして、なくてならぬものは聖霊を受け、御言葉によって神の子と宣言され、ひたいにその「しるし」を受けることとなりました。
洗礼者ヨハネに始まり、イエスの弟子たちによって広められ、その後、改宗者パウロによって引き継がれたキリスト教の洗礼活動ですが、様々な弟子たち、伝道者たちによって洗礼が行われる中で、洗礼への誤解も発生しておりました。
使徒言行録の19章に、次のようにあります。
「アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降った」
とあります。
また、洗礼は、天国に至る信仰の道のりの出発点というわけではないことでしょう。
イエスの受洗によって天が開き、それ以来、洗礼を受ける者が神の子として神の国に迎え入れられたことの「しるし」とされました。
天自らが開いている。
それ以来、これまでも、そして今ものちも、開かれた天が閉じられることはありません。そこから聖霊がほとばしり出ている。これは、信仰者にとっての福音であり、救いへの招きです。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださいます」
